原発の寿命40年をどう考える?

June 13, 2012 – 7:45 pm

日経朝刊(6月11日付)に、「原発40年廃炉 合意」とタイトルした記事がでていた。この記事のリード文は以下:

民主、自民、公明3党は12日、原子力安全行政を一元的に担う新組織をめぐる法案の修正協議で、原子力発電所を運転から原則40年で廃炉にするとの関連法案の規定を維持する方向で合意した。自民党が廃炉規定の法案からの削除を求めて調整が難航していた。3党は新組織の形態や緊急時の首相の権限では大筋で合意しており、今国会の法案成立にメドがたった。

この記事を読んで、原発の寿命をどうするかというのは、原子力の未来をどう考えるかに依存する重要なイッシューではないかと思った。考えたことをメモしておいた。

原発の寿命をどう捉えるか: 原発の寿命をどう考えるかは、原子力の未来をどうしようとするかに依存する。原発の即時的な廃止を求める立場では、当然のことながら、原発の寿命をどう考えるかなんて問題外だ。しかし、現実的な立場にたつと、そうもゆかない。原子力に代わる新エネルギー源を確保するまでの「時間稼ぎ」が必要なのだ。

現存する原発は、その寿命の間は、「安全に」稼動させることにしたらどうだろう。そのあいだに、新エネルギー源を確保するのだ。言い換えると、新しいエネルギー源確保のタイムリミットを現存する原子炉の寿命とするのだ。この意味では、寿命を40年という固定したものにするのが良いのではないか。きちんと、みんなが納得できる期限を置き、ダラダラと原子力に依存する期間を延ばすようなことはしないのだ。

原子力施設の減価償却期間は、原子炉の寿命というものをベースに考えられているはずだ。おそらく、原子炉建設時には、40年という期間を減価償却期間としていたものと推察する。技術的には、これを超えることも可能なんてことを主張し、この期間を超えて運転させようとするのは、福島事故を経験した今、欲張りすぎではないかと思う。減価償却期間40年間は、なんとか運転をして、その間に新たなエネルギー源を確保すると考えるのがよい。

これって常識的な線ではないのか、と思うのだが・・・。その意味で、法的に原子炉の寿命を40年にすることは意味がある。

原子力学会の主張への違和感: 原子力学会が、最近(6月7日付)、「原子力安全規制に係わる国会審議に向けての提言」と題する声明をだした。この声明で、原発の寿命について言及している。この文書、原子力業界の福島事故後の立ち位置を知るうえで興味深い。以下、引用:

今回の法案に「40年運転制限性」が盛り込まれている。専門家を含めた特段の議論もなく提案されたとの感をぬぐいえない。これまで、国際的には、運転年数が長期に亘る原子炉が増大する中で、高経年化する炉の安全確保を如何に図るべきか、検討が進められてきている。原子炉の運転経験が限られている開発当初においては、最初の設計のベースとして30年~40年の運転を前提条件としたが、運転経験の蓄積に伴い、様々な設備や部品・配管等経年変化の知見を獲得し、大型設備の全面的な取り換えが可能になるなど、原子炉の寿命は60年あるいは、更に長期との見方も出てきているところである。

このため国際的には、物理的な寿命を固定的・一律的な年数で示す考え方から、定期的に施設全体の経年劣化の状態を正確に把握し、必要な改善措置を講じる方向に変わってきている。改善措置を事業者にとって対処できない、あるいは適正な負担レベルを超えると判断される時点が原子炉の寿命となるわけである。・・・

この原子力学会の主張を私なりに要約すると、「原子力の専門家集団は、当然のことながら、今後も原子力を主要なエネルギー源として位置づけ、現存の原子炉を可能なかぎり使い続けようと考えている。技術的には、その寿命を60年以上にすることだって可能だ。原子力業界は、それを可能にする経験・技術的蓄積を持っている」ということになる。というか、そのように読んでしまう。

これを読んだ感想を述べさせてもらおう。

福島第一事故で信頼を失った「原子力専門家」集団が、この期に及んでもなお、原子力に依存する未来を当然のものとする傲慢な態度で主張・発言している、と感じた。

今、原子力の専門家に求められるのは、原子炉の寿命がどこまで可能か?という議論ではないはずだ。

現存する原子炉を、その償却期間のあいだに限定して、安全に稼動させる術を考えることこそ、原子力の専門家集団の最大の責務ではないか。


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