やっと読み終えた「カラマーゾフの兄弟」

May 8, 2009 – 6:42 pm

ほぼ2ヶ月前、「今回は読めるかな『カラマーゾフの兄弟』」を書いた。4日前に、やっと読み終えた。大学時代の課題を、実に40年経てやり遂げたというところだ。前回のエントリーで、読み終えたら、感想を書くことにしていた。感想として何を書くかなと思っているうちに4日間が経過した。何を書こうか考えているうちに、時間が過ぎてしまう。「読んだぞ」というだけのエントリーでも残しておくことにした。

キリスト教倫理学なる教科の課題としては、確かに、ピッタリだったな、というのが率直な読後感。これにつきる。

キリスト教倫理学、一般教養で「不可」なる成績をとった唯一の教科。私の在籍した大学では、この教科、必修科目だった。「不可」なる成績をとれば、当然のことながら、進級できないわけだ。40年以上たった今でも、夢のなかに、この落第の恐怖が蘇る。かなり深刻な事態だった。

いわゆる「追試」という制度のおかげで、なんとか進級だけはさせていただいた。しかし、この「追試」の成績も芳しくなかったとの記憶がある。担当の教授(チャプレン)のお目こぼしで、なんとか進級だけはさせていただいたというのが真相だ。

何しろ、『神』の存在を認めるか、認めないかなんて立派な話ではなく、宗教とか信仰とかいうものについて、なんの考えもおよばないのだから、「不可」なる成績をとるのは当然だった。

課題図書であった本書を読み終え、信仰とか宗教とかいうものはこういうことであったのか、おぼろげながら理解したような「気分」になった。本当に理解できたかどうかは分からないが・・・。

何とも重い作品、というのが正直な感想。今回、読み終えることができたのは、亀山郁夫の新訳が読みやすいということもあるかとは思ったが、実際はそうではなさそうだ。内容自体が重過ぎる。とても、40年前の私では、亀山郁夫の新訳が当時あったとしても、他の翻訳と同様、数十ページでなげだしていたように思う。それなりの人生経験をつまないとこの作品、とても読み進めることはできないというのが実感だ。

私自身が豊富な人生経験を積んだとはとても言えない。そうはいっても、無駄飯を60年間食べ続けた程度の蓄積はあるようだ。小説の場面、場面で、登場人物の心の動きを、多少は、追うことができたように感じる。40年前と違い、今回、読み通せたのは、つたない人生経験の積み重ねかなと思ったりもした。

それにしても、読んでいる間中、なにか憂鬱な気分だった。ある種の「修行」をしているような気分で読み進めた。作品の最後、「エピローグ」の「カラマーゾフ万歳」という場面あたり、救われたというか、幸せな気分になったという、何か生きることへの希望のようなものを感じた。ひょっとしたら、この「救われた」という感覚こそが、信仰というものの凄さなのかもしれない。

ドストエフスキーの作品のなんたるかについて述べるだけの力量は、私にはない。しかし、あえて述べるなら、この作品の持つ緻密さは大変なものだとの感想を持った。ドストエフスキーの世界観、あるいは世界のありかたについての彼の「仮説」のなかに、さまざまな特徴を持つ人間が放り込まれ、緻密なシミュレーションが行われているようだ。

ドストエフスキーの作品のもつ凄みというものはこのようなものかと思ったりもした。

今後、「罪と罰」など、その他の作品に挑戦すべきなのか? とんでもない。もう「修行」は今回だけにしたい。凡人の私は、これ以上の修練をつむ気はない。

やっと通常の生活に戻れるな、というのが今の心境だ。

わけのわからない感想になってしまった。このわけのわからない状態が私の今の心境を映し出している。


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