高校の「物理」教科書をのぞいてみた

August 10, 2009 – 6:08 pm

高校で「物理」がどのように教えられているのか、娘の教科書を覗いてみた。子供の科学離れが問題とされている今日、学校ではどんな「物理」が教えられているのだろう、という興味からだ。

「物理」教科書の第一印象: 私の娘は、現在、高校2年生、いわゆる「理系コース」を選択している。いよいよ「物理」を学ぶことになった。学校で使用している教科書は、東京書籍の「物理Ⅰ」(平成18年3月7日検定済、平成21年2月10日発行)だ。

教科書を開いてみた第一印象、とにかく写真やイラストがふんだんに用いられており、私の高校時代(40数年前)の教科書とは、随分、異なる。生徒たちに「抽象的な」物理法則などの理解を深めさせるためにさまざまな工夫をこらしているようだ。

しかし、こうした写真、イラストが「物理」を学ぶうえで、どの程度役立っているのか?多少の疑問もなくはない。また、写真、イラストなどに加えて、科学史上の逸話とか科学をとりまく最近のトピックスを書いた「コラム」と称する短い文章が添えられている。或る意味、親切な構成だと思ったりする。

「おや」と思った記述:そうした「コラム」のなかのひとつに、オヤと思うのをみつけた。その小文のタイトル、「科学を『文化』としてとらえるヨーロッパ文化」だ。短い文なので、以下にそのまま引用する:

科学を「文化」としてとらえるヨーロッパ文化
 「文化」というと私たちは絵画や小説、演劇といったものを思い浮かべ「科学」を文化としてはとらえていないのではないだろうか。科学は文化ではなく、単なる役にたつものと考えていないだろうか。
 ヨーロッパでは、ファラデーの王立協会での公開実験をはじめとして、紳士淑女を集めて、不思議な静電気の実験が公開されたり、振り子の実験から地球の自転を示す公開実験が行われるなど、科学を楽しむ文化があり、それは今でも引き継がれている。
 科学は、役にたつだけではなく、人類が自然界の美しい姿を観察、実験と論理で描き出そうとする文化といえる。いうならば理科系文化なのである。文科系文化よりも歴史は浅いが、科学は人類が描き始めた、文科系文化にまさるとも劣らない美しい文化といえるだろう。

この記述で、おやと思ったのは、「人類が自然界の美しい姿を観察、実験と論理で描き出そうとする文化」、「科学は人類が描き始めた、文科系文化にまさるとも劣らない美しい文化」というくだりだ。これを素直に読むと、科学の文化としての価値は、文科系文化と同様、「人類の創り出す美しさ」にあるということになってしまう(少し言いすぎかもしれないが・・・)。

自然科学と「文科系」文化の違いは?: 自然科学は、我々人類の意識、存在とは別の客観的な自然の存在を前提としなくてはならない。その『美しさ』は、我々が自然の存在、客観的な原理・法則と離れて創り出すことはできない。一方、上記コラムで「文科系文化」と呼ばれる、絵画、音楽などの芸術などを指すものは、そうした制約を受けるものではなく、自由だ。

確かに、自然科学における原理・法則のなかに、「数学的・幾何学的な美しさ」をみることができるものはある。この「美しさ」は魅力的であり、そこに「自然の真理」を求めるということになっても不思議ではない。

武谷三男の「物理学入門」(1952年発行、岩波新書)のなかで、「ギリシャ的宇宙観の発端」についてギリシャの哲学者アナクシマンドロス(前610-547)の宇宙像について次のように言及されている:

アナクシマンドロスは宇宙の基礎を、たえず運動し、生成消滅する知覚されない無限者(アペイロン)であると考えた、弁証法の最初の大哲学者(アペイロン)である。ギリシャ的な、形の論理、すなわち建築や、彫刻においての美の原理として正しい比例関係を考え、美はまた実在の真理であった。(p.75)

このギリシャの宇宙観では、「美はまた実在の真理」と捉えられ、この延長線上にピタゴラス学派の『天体は円運動をなすのみ』という基本原理が形作られていく。天体の円運動を基本とした宇宙観は、ガリレー、ニュートンにいたる近代物理学が生まれるまでの2000年もの間、維持されることになる。

ギリシャ時代の「美が実在の真理」という「論理」は、当時の自然の「観測・観察」からギリシャ的宇宙観を形成するうえで大きな役割を果たした一方、あらたな科学が生み出されるうえで大きな制約になってしまった。

ここにみられるように、「文系文化」の「美しさ」と、同列に、「理系文化」の「美しさ」を持ち込もうとすることは、科学の発展という観点からみると、たとえある局面で積極的な側面を持つことがあるとしても、結局は、歪んだ自然観を持ち込むことになってしまう。

何故、こうしたコラムが物理の教科書に?: 子供の「理科離れ」という問題が議論されている。我がブログでも、この問題について、いろいろな観点から考えてきた。この高校物理の教科書にあるコラムの記述は、おそらく、物理という教科を生徒に対しより魅力的なものとして描こうとした努力の一環であろう。

しかし、こうした自然観を前提に物理学の魅力を描こうとする試みに、危うさを感じてしまう。私だけの危惧であろうか?


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