内館牧子著 「カネを積まれても使いたくない日本語」を読んでみた

March 7, 2014 – 11:46 am

知人に勧められ本書を読んでみた。

本書の著者の感じる日本語の「乱れ」に共感するところもあった。また、私自身が使っている日本語の「乱れ」について指摘されたのではと思った部分もあった。興味深く読んだ。

印象に残ったところをメモしておいた。

著者と本書執筆の意図: 本書の著者、内館牧子について、私の知っていることといったら横綱審議委員会の元メンバーで朝青龍の天敵だったということぐらいだ。彼女に対する印象は、日本人力士のいなくなった相撲界を、相撲は「国技」という建前を死守し「日本文化」を守ろうと頑張る知識人というところだ。

同じく「日本文化」の守り手として、最近の日本語の乱れに苦言を呈し「正しい日本語」を守らんとしたのが本書といえるかもしれない。言葉の専門家ということではなく、本書は、著者が違和感を感じた日本語の使い方をまとめたものだという。

本書の内容そして執筆意図について、「まえがき」に以下のように書いている。

 私は『週刊朝日』に連載エッセーのページを持っているのだが、時々、言葉の乱れについて個人的な所感を書くことがある。すると、毎回毎回、大変な反響で、メールや手紙がドカッと届く。・・・圧倒的多くが「言葉の乱れはひどすぎる」として、自分が不快に思う語を挙げてくる。(p.4)

 ・・・実態を知りたいと思い、2012年8月には朝日新聞社の会員サービス「アスパラクラブ」で「日本語に関するアンケート」を取ってもらった。そして、2487通の回答を得た。本書は読者からの手紙、メール、そしてこのアンケートを紹介しながら、言葉の専門家ではない私が一般人として感じたことを書いたものである。(p.8)

日本語の乱れにはどんなものが?: 乱れありとされ、議論の対象たされる日本語、かなりの範囲に及ぶ。

最近の日本語の変化としてよく引き合いにだされる「ら抜き」からはじまり、なんでも「お」をつける変な敬語などなど、並べてみると、日本語の乱れが相当の範囲にわたることに気付かされる。

また、こうした日本語の使い方の背景には、日本人の持つ性癖そのもの、すなわち過剰なへりくだりとか断定を回避するような曖昧さがあることも理解される。

そのなかで、私が共感を覚えたのは次の2種類の日本語の「乱れ」についてだ。ひとつは「語尾上げ」、そして二つ目は外来語を中心にみられる「平板化」だ。

以下、このふたつについて、本書を引用しながら、詳しくメモしておこう。

「語尾上げ」について: 著者は、これが相手に「同意を促す」使いかただとし、次のように述べている:

 私はこれも、「同意を促す」使い方だと考えている。例えば、あるテレビ番組で「社会保障改革」について論じていた。年配の一般女性は年金について、次のように言った。
「子供の代?になったら、もっと不安?これから先細り?になっていきますから」
「?」のところは語尾を上げ、断定してない。これは断ずることによる責任を回避したいのだと思う。語尾を上げて、「私の言うこと、間違ってないでしょう?同意できるでしょう?正しいわよね?」と、同意を促している。
これも普通、誰も異は唱えない。「ハイハイ」「そうそう」である。この語尾上げに不快感を示す人が多いのは、いちいち同意を促される鬱陶しさゆえだろう。たとえ、聞き流していてもだ。いや、聞き流すレベルのことだから不快なのだ。ハッキリ断定しろよと。(p.182)

著者のこの主張、そうだと思う。

私には、この「語尾上げ」の話し方、優秀な女性のかたに多いという印象がある。少し前、テレビの討論番組でビジネス界で活躍している3人の女性のインタビューを見た。この3人全員が「語尾上げ」言葉を使っているのには閉口した。実に鬱陶しかった。

この「語尾上げ」に対する「鬱陶しさ」というのは、「語尾上げ」のたびに聞き手である私の思考が途切れてしまうことにある。結局、話し手が何を話しているかを聞き逃してしまった。印象に残ったのは、ビジネス界での成功者である女性3人の「語尾上げ」言葉だけであったというのはなんとも残念なことである。

言葉の「平板化」: この平板化については、ある意味、日本語の危機といってもいいような状況と常日頃感じている。なにしろ、NHKをはじめ民放でも全く問題がないように使われている。本書でも、詳しく、その現象を記述している。

以下、かなり長くなるが、本書で「平板化」についている部分を転載しておく。

 今や、ほとんどの言葉は抑揚をつけず、平板に言う。もはや何を聞いても、驚かなくなった。それでも、NHKのニュースで男性アナが「サポート」を「ビロード」というように、平板な言い方をした時、最初はびっくりした。これまでは「サート」として「ポ」にアクセントがあるのが普通だったからだ。だが、NHKの看板ニュース番組で、メインのアナウンサーが平板に言うのだ。彼は先日も「ニーズ」を平板に言っており、もう、驚いたり嫌がったりは「時代遅れ」なのだと自分に言いきかせた。そして、聞き流せるように努めている。むろん、私も「LINE」は平板に言う。
 民放の情報番組で、「キャサリン」という女性の名を平板に言ったのだ。そう、「呼び鈴」と同じに「キャサリン」。
そして、あるニュース番組では、「プレハブの校舎で授業」を平板に、つまり「プレハブの電車で修業」というように言っていた。これにも驚いた。また、民放のニュース番組で、「議員」を「死因」と同じに平板に言った人にもびっくりした。さらに、民放の情報番組で、「勝負」を「丈夫」と同じに言ったのを聞いた時も、力が脱けた。
 とにかく、平板はいちいち数えあげていられない。自民党の女性幹部は、TPP交渉に関し、「オプション」を、尾籠な例だが「立ちション」と同じに、平板に言っていた。民放の男子アナは「ケーブル」を「テーブル」と同じように言い、「言語」を「団子」と同じように言い、コメンテータは「アライアンス」を「洗い箪笥」とでも言うように言っていたが、これらをよく咄嗟に平板に言えるものだと、感心する。やってみるとわかるが、咄嗟にはできないものだ。
この平板化について、柴田武は『日本語はおもしろい』の中で、次ぎのように分析している。つまり、平板な言い方は、当初は学生たちのスラングとして生まれたのではないという。また「パーティー」と平板な「パーティー」、「パンツ」と「パンツ」等々、若い人が使い分けていることにも触れている。そして、出川直樹の説を引用している。
 《出川氏は、この平板アクセントを「棒ことば」「棒発音」「棒言」などと呼び、感情をあまり表面に出さない青少年がふえたからではないかという(「週刊ポスト」1994・10・30 号)。
しかし、多くは、意味の分化までは引き起こさず、平板アクセントのほうが、「新しい」「若々しい」、「都会的な」「仲間うちの」言い方というイメージを伴うだけである。そいう平板アクセントの出現、つまり平板化が最近の著しいアクセント変化として多くの人に気づかれている。》
そして、柴田は非常に興味深い数字を挙げて、次のように書く。
《それは、日本語で一番多いアクセント型は平板だからである。日本語が外来語を引いた在来語についていうと、四七・三%が平板である。これは、NHK編の『日本語発音アクセント辞典改訂版(日本放送出版協会、1985年)の五万三千語から得た数字である。
しかし、そういう、多数・少数の数の力関係だけで平板化が進んでいるわけではない。すでに触れたように、「新しい」「若々しい」「都会的だ」というイメージを伴いながら仲間うちのことばとして爆発的に普及しているのだと思う。
 サーファーと頭高で言っているうちは素人、玄人になればサーファーと平板に言うんだという意識が働いている。「君たちサーファーなの?」と平板のアクセントで若者たちに声をかければ、「この人わかってる」と一目置かれることになる。この平板化アクセントを「専門家アクセント」とか言う人のあるのはそのためである。わたくしはむしろ「仲間うちアクセント」のほうが的確な言い方だと思う。》
そうか、日本語の半分ほどは平板なのか。NHKの『日本語発音アクセント辞典改訂新版』は手に入らなかったが、もしかしたら、そこに、「サポート」や「ニーズ」は平板なアクセントで出ているのかもしれない。としたら、キャスターは正しい。私はカネを積まれても、「サポート」や「ニーズ」を平板に言いたくないが。(pp.254-258)

この平板化の傾向について、私は少し違った印象を持っている。上記転載のなかで触れられている「日本語で一番多いアクセント型は平板」というデータについてであるが、これは高度成長期を通じて我が国の人口が東京に一極集中化した結果ではないかと思うのである。

言葉の持つ「地方色」をそぎ取り標準化しよとすると、「平板化」に行き着くといったところだろう。

私自身、地方出身者で、40数年前、高校を卒業し東京で暮らすことになったのであるが、「標準語」とされる東京の言葉と故郷の言葉とのギャップに多少は悩んだことがある。特に、言葉のアクセントの違いには悩まされた。これを解決する一つの方法が、抑揚をなくした喋りをすること、すなわち「平板化」であったように思う。

「平板化」の背景に何があるかは置くとしても、これに不快感を感じるというのは確かだ。


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