「日本のこれから―学力」(NHK:3月8日放送)を見て

March 16, 2008 – 9:03 am

NHKの「日本のこれから」なる討論番組を見た。今回は、教育問題、特に学力の低下問題をテーマに取り上げていた。これまでも、何回か「日本のこれから」シリーズの討論番組を見たことがある。「やはり今回も!」、というのが見終わったときの正直な感想だ。だらだらと床屋談義を流し続けているというのが実感。視聴者参加番組という体裁を整えることに汲々とし、焦点が定まった議論ができていない。そのまま、なにか結論(らしきもの)を導こうとするところに無理がある。これが私の実感だ。ただ、個別の意見には、いろいろ頷くところもあった。

この番組を見た高校の先生のブログを見つけた(ここ)。番組内容をきちんと紹介していただいている。これを見ながら、番組内容を思いだし、いろいろ考えることができた。(NHKが本気で議論しようと、番組を企画したのなら、番組内容をフォローするための、仕組みを提供するのが筋なのでは?) 以下、この番組を通じて、私の学んだこと、気づいたことを、少し、書いてみよう。

番組の意図はなんだったのか?番組の冒頭に出てきたOECDのPISA報告。日本の子供の「学力」、世界の順位が落ちた。教育立国・日本、大ピンチ。基本的な漢字の読み書きができない若者が増えてきた。生産現場で、学校教育で学んだはずの基本的内容を再教育しなければならないという現状がある。日本の子供の学力が低下は著しい。大変な事態だとの認識。教育(内容と制度)を見直したい、さらにどのような教育が必要なのか考えたい、ということらしい。

OECDのPISA報告 この報告、私自身、かなり興味がある。OECDの報告書を、少しずつ読んでいるところだ。しかし、この報告書について議論されるときは、いつも「日本の順位が落ちました」というところが第一に取り上げられる。いかがなものか?この報告書、順位だけではなく、さまざまな視点(因子)から結果を分析している。単純に、国別順位の低下を取り上げて、日本の教育全般について議論しようとするのは、議論の入り口として、あまり良くないのではと思う。私自身、PISA報告を良く読んで、少し考えたいと思っているところだ。

教師の能力の低下? この種の議論で、いつもでてくる大問題。最近の教師の能力が低下しているという話だ。番組でも、教師を評価のまな板にのせることの良し悪しが議論されていた。この種の話しで必ずでてくるのが、進学塾との比較だ。乱暴なまとめかたをすると、進学塾はとっても効果的、だけど学校、特に公立学校はなっていないといった話だ。子供たちも、学校の授業は楽しくないけど、塾は楽しいという。また、番組でも、例の和田中学校の話がでてくる。公立の学校施設を活用して、進学塾教師が教室を開くという話だ。これも、(公立)学校叩きの延長線上で議論されているように感じる。しかし、本当に、塾はすばらしいけど、(公立)学校はだめなのか?(公立)学校の教師の能力は低くて話にならないのか?

進学塾が学力向上に役立つ? 私にも、前のエントリーでも書いたように、今年、高校受験をした子供がいる。私の子供、全く塾通いはしていない(一度、冬季講習というのを受講したことはある)。おかげで、受験を控え、あたふたと親子で受験勉強をするはめになった。その経験から言うと、学力を推し量るとされる偏差値なるもの、受験のためのテクニックが大きな部分を占めている。短期間で、偏差値を10程度上げるというのは、そう難しいことではない(少し言い過ぎ?)。(公立)学校で教わる基本的な項目さえ一定程度理解できていれば、こうしたことは可能というのが実感だ。少なくとも、私の子供の中学校、最低限必要な教育を施してくれていた。わが子を教えてくれた(公立中学校の)先生たちに、心から感謝。進学塾は、単に、(公立)学校で培われた基礎のうえに、受験テクニックを与えているに過ぎないのではないのか?多少、いやな言い方をすれば、「いいとこ取り」をしているにすぎないのではと思う。「今、世間で評判の悪い」(公立学校の)教師の営み、努力に、多少の味付けをして成果を出すのが塾なのではないのか?少し、言いすぎかもしれないが、これが私の実感だ。がんばれ、(公立)学校の先生だ。それにしても、(公立)学校の先生たち、劣悪な労働条件のもと、本当に努力されている。まだまだ、捨てたものではないぞ、日本の教師。

日本の公教育の欠陥は、先生たちに、子供たちの教育に専念できないほどに過剰な労働を強い、疲弊させてしまっている制度そのものにあるのではないか?この制度を改善するには、教育予算の大幅な増額が必要だろう。私の見受けるところ、現実の教育現場、先生たちはへとへとだ。こんな状態にして、番組にでていたローソンの社長、経営的視点のみで公教育制度を批判するのはいかがなものか。この経営的視点、感覚こそが、わが国の非正規労働者を大量に生み出した元凶ではないのか。学校の先生たちをコンビニで働く非正規労働者と同じに扱ってもらっては困る。まず、ローソンの社長殿、自らの全ての社員を正規社員とし、待遇を大幅アップしたのちに教育問題を論じて頂きたい。彼には、まだ、その資格はない。子供たちは、金儲けの道具ではないのだ。

佐藤学教授(東京大学教育学研究科)の話は、番組のなかで傾聴に値するものと思えた。なかでも、米国大学の黒人に対する学資援助システムについて、ここで援助を受ける3倍もの黒人が犯罪者として刑務所に収監されるという事実を示しながら、国の教育投資のありかたを誤ると、それを上回る社会的負荷を生じさせるという指摘は実に説得力のある話である。この佐藤学教授の指摘は、榊原早大教授(ミスター円が教育問題を論じる?)のエリート偏重ともいえる教育システム導入の議論と対極をなすものと感じる。榊原氏の議論は、PISAショックで立ち上げられることになった横浜サイエンスフロンティア高校のようなものを、文部科学省の規制を緩和することにより、本格的に、取り入れようとするものと理解した。一部の子供たちにエリート教育を施し、大多数を取り残すことが日本が抱えている教育問題を解決するものとはとても思えない。

教師の質の低下についての、佐藤学教授の説明:

諸外国で高卒レベルの教師による教育が行われていた時代、わが国では早くから大学を卒業した教員による教育が行われており、世界的に見て、相当、質の高い教育が行われていた。しかし、現在では、逆に、わが国の教師のレベルが諸外国に比べて低くなってしまっている。

この問題は複雑だ。学校教育で与えるべき教育内容と、現実の社会との間にアンバランスが生じてきていると捉えるべき問題なのだろう。討論のなかで、中年の女性が「(学校で教えることは)読み書き算盤をきちんとすれば十分」などという発言をしていた。これは正しい。しかし、「読み書き算盤」の質が変わってきているというところが問題になっている。世の中のIT化など情報処理技術の進展、グローバル化などを考えれば、日本の公教育が機能していた時代の「読み書き算盤」と現代の「読み書き算盤」の中身は大きく変わったというのが本質だ。その意味では、学校の先生たちの力量、高度な教育の専門家を育てる必要はあるのだろう。

いろいろ、その他、番組を通じて感じるところはあるが、ここらで終わりにしよう。まとまりのない感想になった。ただ、教育を「学力」で括り、議論するのは無理があるというのが実感だ。進学塾の教師たちが我が物顔で自分の主張をするのをみながら、城山三郎の「素直な戦士たち」(ここ)に描かれている問題を思いおこした。子供たちは、ロボットではない。


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