トーマス・クーン著「科学革命の構造」を読んでみた

September 28, 2010 – 5:50 pm

科学研究の分野で、パラダイムとかパラダイムシフトという言葉をよく耳にする。この意味するところ、ぼんやりと分かったような気分でいたが、よくよく考えてみると正確なところは分かっていない。いまさらとは思うが、このパラダイムなる概念を自分なりに明確にしておきたいと思った。このパラダイムなる用語の出所は、トーマス・クーンの「科学革命の構造」のようだ。読んでみることにした。

読んでみて、なるほど、こういうことが主張されていたのか、とあらためて思ったところだ。クーンの主張が、我が国の科学論などに対し、大きな影響を与えたのも理解できた。かなり強力だ。読むだけの価値はあったと思う。しかし、私の「科学観」といったもの(そういものがあるかどうかは何ともいえないが・・)からすると、本書の主張、私にとっては、なかなか受け入れることができないな、というのが偽らざるところだ。

本書「科学革命の構造」は、Thomas  S. Kuhnの ‘The Structure of Scientific Revolutions’ second edition (1970年 The University of Chicago Press)を中山茂が訳出したものである。この日本語版は1971年にみすず書房から出版されている。私の読んだものは、1981年発行の第12刷となっている。日本語版に併せて、原著のthird edition (1996年刊)がペーパバックというかたちで安く手にはいる。日本語版を読んで気になった部分については原文でも読んで見た。


ひとこと感想をのべるとすると、私にとって、かなり難解であった。なにしろ、本書のいわんとするところをフォローしようとするだけで、かなり骨が折れる。それだけ、いままで接してきたことの無い世界をのぞかせてもらったということにもなるだろう。

本書を簡潔に要約しようにも、私にはそういう能力もない。ということで、本書を読んでみようと思ったきっかけである「パラダイム」の意味するところは何かということ、そして本書を読んでいて最も興味深かった「相対主義とのかかわり」の部分を抜粋し、それぞれに簡単な感想を付しておくことにした。

日本語訳と原著を読み比べてみると、私の感覚からいうと、若干、ニュアンスが異なるところがあると感じた。抜粋した部分については、翻訳と原文をならべておいた。ただ、日本語版が(発刊時期から想像するに)second editionを訳出したものであり、私の手元にある原著がthird editionということで、このあたりに私がニュアンスが異なると感じた理由があるのかもしれない。

パラダイムとは: まず、パラダイムという用語は、本書のなかで、どのように説明されているのか。本書では、この用語、通常科学(Normal Science)とよばれる科学研究の営みとの関連のなかで議論されている。最もよくこの用語を説明していると感じたところを抜粋しながら、その意味するところを見てみる:

「パラダイム」という用語について見るまえに、この概念と密接な関連を持つ「通常科学」(Normal Science)に対する定義からみてみよう:

 本書で、「通常科学(Normal Science) 」という場合は、特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績を受け入れ、それを基礎として進行させる研究を意味している。(p.12)

 In this essay, ‘normal science’ means research firmly based upon one or more past scientific achievement, achievements that some particular scientific community acknowledges for a time supplying the foundation for its further practice. (p.10)

この「通常科学(Normal Science)」が、過去の時代々々に依拠、基盤としてきた科学的業績は次のふたつの本質的な性格を持つとされる。即ち、

  1. (そうした科学的業績が)他の対立競争する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさを持っている
  2. その業績を中心として再構成された研究グループに解決すべきああらゆる種類の問題を提示してくれているもの

のふたつの性格である。本書では、このふたつの性格を有する科学的業績を指して「パラダイム」と呼ぶようである。

以下、本書で通常科学(Normal Science)とのかかわりで、この「パラダイム(paradigm)」なる用語を定義している部分を抜粋しておく:

 これら二つの性格を持つ業績を、私は以下では「パラダイム」paradigmと呼ぶことにする。この言葉は、「通常科学」に密接に関連しているのである。私は実際の科学の仕事の模範となっている例 --法則、理論、応用、装置を含めた--があって、それが一連の科学研究の伝統をつくるモデルとなるようなものを、この言葉で示そうと考えたのである。

 Achievements that share these two characteristics I shall hence forth refer to as ‘paradigm,’ a term that relates closely to ‘normal science’. By choosing it, I mean to suggest that some accepted examples of actual scientific practice  – examples which include law, theory, application, and instrumentation together – provide models from which spring particular coherent traditions of scientific research.

そういうことだったのか、と思う。私がぼんやりと抱いていた概念とはかなり異なる。科学研究を進めるうえで、欠くことができない前提の全体を指すものと考えればいいのかな、と思う。本書を通じて主張されていることのひとつは、「科学革命」においては、このパラダイムは全面的に変革される、ということのようだ。

「相対主義」とのかかわりについて: 本書(second edition の翻訳)は、1962年出版の部分と、1969年に書かれ補章-1969年(Postscript-1969)の二つの部分から構成されている。補章-1969年の部分は、初版に対するさまざまな批判に対するKuhnの反論というものになっている。当然、ここには、彼の主張を補足強化したものが含まれている。

この補章-1969 年の「第六節 革命と相対主義」に興味深い部分がある。かなり長くなるが、以下、抜粋しておいた:

・・・後に出た科学理論は、前のものよりも問題を解く能力において、時には全く違った状況にまで適用できる、より良いものである。それは相対主義者の立場ではない。それは私が科学的進歩の強固な信者であることを示している。
 しかし、科学哲学者や一般人の間に最も行き渡っている進歩の観念と比べると、何かかけているものがある。後から出る科学理論は、普通、その先行者よりも良いと感じられるのは、ただ、パズルを発見し、解くより良い道具であるという意味だけでなく、それが自然の真相をよりよくあらわしているからである。後から出る理論は「真理」にますます接近する、ということは良く聞くことである。このように一般化する述べ方は、パズル解きや理論から生じる具体的予測に当てはまるもの、というより、むしろ理論の実体論、つまり、自然のなかに仮構するものと、「真にそこに」存在するものとの間の適合にかんするものである。
 しかし私は、そのような主張がもはや意味を持たない、とする。一つには、「真にそこに在る」という言葉が何を意味するかわからないからであり、また一つには、理論の実体論とその自然における「真の」対応物との間の適合という観念自体は、私には原則として今や幻想に見えるからである。その上、歴史家として私はこの見解の説得力のなさを身に染みて感じている。たとえば、私はニュートン力学がパズルを解く道具としてアリストテレスの力学より優り、アインシュタイン説がニュートン説に優ることを疑わない。しかし私は、これら諸理論の継起において、実体論的発展の首尾一貫した定方向的方向を見出し難い。逆に、ある重要な点に関しては(決してすべてについてではないが)、アインシュタインの一般相対論とアリストテレスの力学の間の親近性は、両者の各々とニュートン説との間の距離より近い。この立場を相対主義と表現したい誘惑は、理解し得るものであるが、それは、私には間違いであると思える。逆に、その立場が相対主義であるとすれば、相対主義者であるからといって科学の本質や発展を説明するに必要なものも失うものではない、と私は断言できる。(pp.237-238)

…  Later scientific theories are better than earlier ones for solving puzzles in the often quite different environments to which they are applied. That is not a relativist’s position,  and it displays the sense in which I am a convinced believer in scientific progress.
 Compared with the notion of progress most prevalent among both philosophers of science and laymen, however, this position lacks an essential element. A scientific theory is usually felt to be better than its predecessors not only in the sense that it is a better instrument for discovering and solving puzzles but also because it is somehow a better representation of what nature is really like. One often hears that successive theories grow ever closer to, or approximate more and more closely to, the truth. Apparently generalizations like that refer to the puzzle-solutions and the concrete predictions derived from a theory but rather to its ontology, to the match, that is, between the entities with which the theory populates nature and what is “really there”,
  Perhaps there is some other way of salvaging the notion of ‘truth’ for application to whole theories, but this one will not do. There is, I think, no theory-independent way to reconstruct phrases like ‘really there’; the notion of a match between the ontology of a theory and its “real” counterpart in nature now seems to me illusive in principle. Besides, as a historian, I am impresed with the implausability of the view. I do not doubt, for example, that Newton’s mechanics improves on Aristotle’s and that Einstein’s improves on Newton’s as instruments for puzzle-solving. But I can see in their succession no coherent direction of ontological development. On the contrary, in some important respects, though by no means in all, Einstein’s general theory of relativity is closer to Aristotle’s than either of them is to Newton’s. Though the temptation to describe that position as relativistic is understandable, the description seems to me wrong. Conversely, if the position be relativism, I cannot see that the relativist loses anything needed to account for the nature and development of the sciences. (pp.206-207)

この部分、かなり興味深い、私の読み方が正しければ、この文のなかでクーンはある種の開き直りをしてるのではないかと思ってしまう。

新しい科学理論が、古いものに比べて「問題を解く能力において、時には全く違った状況にまで適用できる、より良いものである。それは相対主義者の立場ではない。」としながら、客観的な「真理」の存在というものを否定する。むしろ、そうした「真理」が存在するかどうかという主張に意味を認めない、というのである。さらに、最後には、「その立場が相対主義であるとすれば、相対主義者であるからといって科学の本質や発展を説明するにひつようなものも失うものではない、と私は断言できる」となる。

この部分を読み、私は、考え込んでしまう。科学の発展のメカニズムを「パラダイム」という概念を用いて説明するあたり、かなり強力であり、共感するおぼえる。ところが、「客観的な真理」の存在を否定してしまうとは・・・。

このクーンの主張、プラグマティズムの極致ともいえるものではないのだろうか。なるほど、そういうことであったのか、と思う。もう少しかんがえてみることにしよう。9


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  2. Oct 19, 2010: 益川敏英著「科学にときめく」を読んでみた | Yama's Memorandum

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