司馬遼太郎著「翔ぶが如く」を読み終えた

October 16, 2010 – 4:46 pm

司馬遼太郎著「翔ぶが如く」(文春文庫版 全10巻)を読み終えた。8月半ばから読み始め、実に、2ヶ月を要したことになる。実に興味深い本であった。現在の「日本」という国を考えるうえで、幕末から西南戦争の終結に至るまでの歴史的な流れを知らずして議論できないように思った。あまりにも私の知らないことが多くあることに気づいた次第だ。この書を読み終えたといことだけでもメモしておくことにした。


司馬遼太郎の3部作: 司馬遼太郎が幕末から明治を描いた歴史小説のうち、私が読んだものは、この「翔ぶが如く」で3作目だ。「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」そして今回の「翔ぶが如く」を読んだ。5年前に9ヶ月間にわたり入院生活をしたが、この3作ともそのときに購入したものだ。そのときから数えると、実に5年間にもわたってこの「3部作」とつきあってきたことになる。

この3作いづれも最初は新聞小説として書かれており、その後、単行本として刊行されている。新聞小説として連載された期間をならべてみると以下のようになる:

  • 「竜馬がゆく」  「産経新聞」夕刊 1962 年 6月21日 -- 1966年 5月19日
  • 「坂のうえの雲」「産経新聞」夕刊  1968年 4月22日 -- 1972年 8月 4日
  • 「翔ぶが如く」  「毎日新聞」朝刊  1972 年 1月 1 日 -- 1976年 9 月 4 日

この3部作とは別に、1966年6,9,12月に「最後の将軍 徳川慶喜」が「別冊 文藝春秋」に掲載、また1967年には乃木希典を描いた「殉死」を文藝春秋から刊行している。1962年から連載の始まった「竜馬がゆく」からはじめ、幕末から明治にかけての我が国の歴史を丹念に15年にわたって書き続けたことになる。取材・調査の労力を考えると超人的ともいえる。

これら著作に描かれていること、近代日本はがいかに形付けられてきたかということであろう。これらを読むと、自分の住む「日本」という国が何であるのかについて深く考えさせられる。また、いかにその成り立ちについて、私が、無知であったかを思い知らされる。

西郷隆盛は我が国にとっていかなる人であったのか?本書を読んで不思議な気分にさせられる。上野公園には西郷隆盛の銅像がある。平均的な日本人であれば誰でも知っている。では、西郷なる人物とは、となると殆どわからなくなる。幕末から明治にかけての我が国の近代化を了とするなら、彼は基本的には「反革命」の首謀者ということになるはずである。

そうした「反革命」の首謀者が、上野公園の銅像となり「愛すべき」対象となっている、という事実を日本人としてどのように考えればいいのか?彼は「反革命の首謀者」ではあったが、そのひととなりは愛すべき対象である、ということなのであろうか。それとも、「反革命的」と考えられたことは、実は、我が国の発展にとってなんらかの役割を持つものとして再評価されたのであろうか。なんとも不可思議なことである。我が国の不思議さを再確認させられる。

我が国の官僚制度は「 翔ぶが如く」の描かれた時代にほぼ確立されたもののようだ。そもそも「官」という用語自体がこの時代に作られたものだという。本書のあとがき(「書き終えて」)に次のように説明されている:

 官とは、明治の用語で、太政官のことである。日本語ではない。遠い七世紀に、日本の農地をすべて天皇領にし、すべての耕作者をオオミタカラ(公民・天皇のヤッコ等という意)にしたとき、それらを統治するための中央集権の機構を中国式にし、それを官という中国語でよんだ。その後武家政治という現実主義的土地所有制の出発で「官」は有名無実になり、明治維新とともににわかに復活した。極端な開化政策をとるためには、極端な復古主義に重心を求めざるをえなかった当時の政治力学の所産といっていい。(文春文庫版第十巻 pp.357-358)

「官」なるもの、明治維新のドサクサに作った極端な復古主義的な組織だったというのだ。この「太政官」が明治二年六月の大名たちの版籍奉還および明治四年七月の廃藩置県を通じて中央集権的な絶対権力になる。そして、

 それらの「官」の代表がなんといっても大久保利通であった。彼は・・・この絶対権力を文明開化の巨大な推進体にし、官員たちに対し、その輝ける推進者であるというふうに鼓舞し、その意味での正義を与え、それによって官僚たちの士気をいやが上にも高め(た) (文春文庫版第十巻 p.361)

ということのようだ。

文明開化の推進体としての「官」の当時の役割が見えてくる。我が国の「官僚組織」、その成立から約150年たった今日においても、基本的に同じ形を保っていると考えて差し支えなさそうだ。このあたりが変化しない限り、我が国の未来はないのかもしれない、・・ なんて思ってしまう。

司馬遼太郎の歴史小説、特に幕末から明治にかけて描かれている史実は、我が国の抱えている問題の源を考えるうえで大きなものを与えてくれるような気がする。

それにしても、学校の教科書に、幕末から明治にかけての歴史が殆ど教えられないということはどう考えれば良いのか。考えだすと、限りなく疑問がうまれてくる。


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