KJ法は発想支援ツールとして有効?

May 4, 2008 – 10:37 am

前回エントリーの梅棹忠夫「知的生産の技術」の出版に先立って、1967年には、川喜田二郎著の『発想法-創造性開発のために-』が発行されている。どちらもフィールド研究の経験に基づき、発見、発想、言い換えると新しい『知』を生み出すための手法を提案・紹介しているものだ。『発想法』も、私の書棚に眠っていた。『知的生産の技術』にあわせて読み直してみた。

川喜田二郎著『発想法-創造性開発のために-』は、中公新書として、昭和42年6月26日初版で、私の本棚にあるのは、昭和44年10月3日発行の第16版だ。この本も、かなりのベストセラーだ。現在でも、この本で提案されているKJ法と呼ばれる発想支援の技法は、シンクタンクなどの調査研究プロジェクトで用いられているようだ。特に、多岐の専門領域にまたがる、いわゆる境界領域における調査・研究プロジェクトに、未だ、盛んに用いられていると聞く。

KJ法を用いた研究会: 私自身、このKJ法に似た技法を用いた研究会での議論に参加させてもらったことがある。ここでは、研究会に先立ち、参加者に対して、ある課題とのかかわりで想起される「キーワード」を提出することが求められた。研究会当日は、参加者から収集された「キーワード」群は、それぞれの「キーワード」をノードとし、それらの概念的なつながりをリンクとするかたちで図式化され、議論が進められた。図のノード・リンクはPC画面上で自由に操作され、議論の進行とともに、これをくみかえるとか、図式化されたノード・リンクに基づく議論から啓発された新しいノードを追加するなどして、議論がすすめられ。今回、『発想法』を読み直し、私の参加した研究会の進め方、基本的な考えかたは、これだったなと、あらためて確認したわけだ。

KJ法に対する違和感: 私の参加した研究会で用いられたPC上のノード・リンク図を用いた議論の進め方自体は、KJ法そのものではなかっただろう。ノード・リンク図の作成に先立つブレーンストーミングが行われたわけでもないし、KJ法B型と呼ばれる文章化のフェーズもそこにはなかった。しかし、ブレーンストーミングの部分は、「キーワード」の収集、そしてKJ法B型の部分は研究会事務局が担当し、プロジェクト全体の流れ、そして研究会の運営は、このKJ法、あるいはその技法の変形を意識していたに違いない。

私をして違和感を持たせたというのは、おそらく、提出させられた「キーワード」の裏にあるアイディア、そしてその背景、文脈が全く切り取られたかたちで議論の俎上にあげられたということだったように思う。梅棹忠夫の「カード」式では、カード一枚一枚へのアイディア、経験の記述は、『豆論文』を書くようにということであった。しかし、KJ法で取り扱う「キーワード」(KJ法では「一行見出し」と呼ばれる)ものでは、肝心の『豆論文』の中身が簡単な「キーワード」に代表されてしまうのだ。

川喜田二郎の「発想法」によれば、アイディアの各単位「一行見出しづくり」の意味あいについて次のように述べている。少し、長くなるが引用してみよう:

 一行見出しづくりを抽象的にいえば、単位化しかつ圧縮化することである。この過程を私の同僚である心理学者の坂本昴氏に聞いたところ、彼はコンセプトフォーメンション(concept formation)というべきであろうといった。それなら、文字どおり「概念づくり」という表現でよいと思う。じっさい、この一行見出しを、その方向でどこまでも圧縮すると、最後にはPとかTとかの符号にすることもできるわけだ。そのように圧縮化しきった概念を頻繁に使わなければならない必要性があった場合には、われわれはめんどうくさくなって、おしまいにそれをPとして記号化しようということになるであろう。
 ・・・・厳密ぶった科学の用語、学者の用語や符号も、じつはいつか昔に、だれかがこのような一行見出しをつくり出すのと同じような概念づくりの操作を経て、約束ごととしてつくった歴史を持っているのである。・・・・ただちがうところは、そこまで煮詰めないで、ゆるやかな一行見出しでとどめている点だけである。しかも、このゆるやかさのなかにこそ、たいせつな味があることを忘れてはならない。それは同時に、もっと圧縮する「必要が生じた場合には」、符号もよく、それを裏づける厳密な概念規定もよろしいということでもある。(p.72)

そうなのだ。「一行見出しづくり」は、「単位化しかつ圧縮化する」概念化であり、(科学的な概念と異なるところは)「ゆるやかな一行見出し」にとどめているところである。「このゆるやかさのなかにこそ、たいせつな味があることを忘れてはならない」のである。個人が、新しい発想を得ようとする際に、アイディア毎に「一行見出し」を数多く作り、相互の関連を図示しながら思索を重ねることは有効かもしれない。個々の「一行見出し」に付随するリッチな内容が、思索をする本人にとって「一行見出し」に代表され、即時にそれが代表する中身に結びつけることが可能だからだ。しかし、複数の参加者が、突然、「キーワード」あるいは「一行見出し」のみをならべ、相互の関連を考察しようとしても、何も新しい発想など生まれる筈がない。「一行見出し」がそれに代表されているリッチな内容が参加者間で了解されていないからだ。こうした議論が、表面的なもので終わるのは不思議なことではない。川喜田二郎にとって、自らの野外研究をすすめるにあたって、こうした手法が有効であったことは推察できる。しかし、これを万人が発想を産み出す技法として持ち込むには、無理がある、ましてや日常的に接触を持たない複数の人間がチームを作ってひとつの課題を検討するという場面では、百害あって一利ないと思うのは私だけであろうか?

立花隆のKJ法批判: この本を読み終わったあと、近所の図書館で立花隆の「知のソフトウェア -情報のインプット&アウトプット-」(講談社現代新書 1984年3月20日第一刷発行)なる本を見つけた。この本の内容については、別のエントリーで議論することにして、KJ法について書かれている部分のみを、以下、抜粋し、議論しよう。

 ・・・・KJ法の原理は非常に重要なことだということはわかっていた。しかしそれは、別に川喜田二郎に教えられるまでもなく、昔から多くの人が頭の中では実践してきたことなのである。別に珍しいことではない。KJ法のユニークなところは、これまでは個々人の頭の中ですすめられていた意識内のプロセスを意識の外に出して一種の物理的操作に変えてしまったことにある。
「頭の中であれこれとりとめもなく考える」というプロセスをさまざまの概念を記した紙片をあちらに動かしたり、こちらに動かしたりという物理的運動に変える。それによって、これまで個々人の頭の中という無形の作業空間しかなかったものが、一つの物理的作業空間を得ることによって、集団的作業が可能になる。作業手順を定型化することで、万人向けのシスティマティクな方法論が確立する。 ・・・・。
 KJ法のごとき発想、つまり、思考過程を普遍的かつシスティマティクな物理的作業手順に分解することによって、これまで意識内作業であったものを物理的作業に置き換えることができるという発想は、コンピュータにはふさわしいが、人間にはあまり向かない。 ・・・・。
 ・・・・人間の頭は、ずさんな機械だが、それ故に、きわめて柔軟性に富んでいる。作業手順などどうとでもなる。無意識層に内蔵されているプログラムが無限にあり、それを利用して、随時、アド・ホックなプログラムを無意識のうちに作り、それを試行錯誤で改善していくことができる。
 データにしても、同じように無意識層に蓄積されているデータが無限に近くある。そのデータを、人間の頭脳は、やはり無意識のうちに、随時引き出して参照する能力を持つ。しかもその引き出しにあたって、コンピュータのようにシスティマティクなスキャニングを必要としない。「閃き」とか「思いつき」とか呼ばれる、いまだにその機構が未解明の独特の検索能力によって、瞬間的にひつようなデータがただちに取り出されるのである。(p.150-153)

そうなのである、私の理解では、KJ法のごとき発想は、思考過程をシスティマティクな「作業手順を定型化」することによって、人間が本来持つ能力、立花隆いうところの「無意識層に内蔵されている無限のプログラム」の利用、言い換えれば個々人が本来持つ多様な問題解決方略、そしてその柔軟な適用を阻害してしまうのである。こうした立花隆の見解は、その通りと思う。

次のデータの検索能力については、私は若干意見を異にする。人間は、「無意識層に蓄積されているデータが無限に近くあり、・・無意識のうちに、随時引き出して参照する能力」を持つことには異論はない、しかしこれら無意識内のデータにはあいまいさがつきものだ。この弱点を助け、補強するもの、そして、さらに発想をより強固に、そして信頼にたるものにすることを支援することこそが発想の支援ツールとしてふさわしいものではないだろうか。梅棹忠夫が『知』の『カード化』で、「知のデータベース化」を図ろうとした意味は、ここにあるのではないかと思うのだ。「知的生産の技術」で議論されていたのは、発想を支援するツールとしての知のデータベース化技術なのだ。

梅棹忠夫のKJ法に対する見方: 梅棹忠夫の「知的生産の技術」においても、川喜田二郎の『発想法』が、次のように紹介されている。

 KJ法というのは、・・・・ 異質のデータからいかにして意味のある結合を発見できるかという、いわゆる発想法の体系的技術として、最近たいへん注目されているものである。とくに、複数の人たちの「衆知をあつめる」法として、おおいに評価されて、各種の企業でも実用化されているようだ。わたしがここに紹介したこざね法というのは、単数個人用の、いわば密室むき知的生産技術であって、川喜田君の体系でいえば、比較的素朴で、初歩的な技法に属する。かれの体系のなかでは、「KJ法B型による文章化」とよばれているものと、ほぼおなじである。

確かに、KJ法は「複数の人たちの『衆知をあつめる』法として、おおいに評価され」ている。しかし、梅棹忠夫は、知のカード化による技法を『単数個人用』の『密室むき』知的生産技術として限定し、使用した。密室むき知的生産技術として限定することにより、前段で議論したKJ法の「一行見出し」にみられる危険を冒すことはなかった。むしろ、蓄えられた『知のカード』群は、彼自身の『知のデータベース』として、その発想、文章化を、まさに支援するツールになっていたはずだ。

KJ法の発想支援ツールとしての有効性について考えてきた。以上、述べてきたように、この技法、私の理解では、原理的な欠陥、無理があると思う。KJ法で提案されている技法は、ひところ流行した『人工知能』による発想支援と共通の問題があるように感じるのだが、いかがだろう。


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