「竜馬がゆく」と「龍馬伝」(その6)
August 13, 2010 – 1:16 pmこれまで、5つのエントリーで司馬版「竜馬がゆく」とNHK大河ドラマ「龍馬伝」の相違点などについて、書いてきた。この「連載」エントリーを今回の(その6)で終了することにした。途中で、終了したのは、NHK版「龍馬伝」、私の期待したほどのものでなかった、といういうことだ。
NHK版「龍馬伝」に対する個人評: このふたつの竜馬のものがたり、歴史の研究書ではないわけであるから、史実と異なるのは当然だ。そうはいうものの、坂本竜馬は、近代日本の姿を決定づけた偉人のひとり、実在した歴史上の人物である。細かな史実に適合しているかどうかは別にしても、当然のことながら、大きな時代の流れと適合しなければならない。時代考証は、この種のドラマにとっては、極めて重要だ。
竜馬ファンのひとりとして、NHKの「龍馬伝」を楽しみにしていた一視聴者として、どうもこのドラマ、正直なところ、あまりにも幕末の時代の流れというものから逸脱しているように思うようになってしまった。前回エントリーの「『竜馬がゆく』と『龍馬伝』(その5)」に書いたのであるが、竜馬の目指す日本の姿が、司馬版とNHK版では、全く異なってしまっている。
坂本竜馬の歴史的役割、思想をどう見るか、ということはドラマのありかたを決定するはずであるが、NHK版のそれは、乱暴すぎる。極端な言い方をすれば、歴史を改ざんしてしまっている。
そのあたりから考えると、もはやNHKの「龍馬伝」、坂本竜馬の名を借りた幕末時代劇のたぐいで、私が子供のころにはやった鞍馬天狗と同列のドラマだ。「杉作、日本の夜明けはちかいぞ」と嵐寛寿郎のセリフに胸をわくわくさせていたのを思い出す。そういう意味では、このNHKドラマ、それなりに面白い。しかし、実在した坂本竜馬という人物を、こういったかたちで取り扱うというのは、いかがなものか。
なぜNHK大河ドラマは支持されてきたか?: そもそも、NHKの大河ドラマが、視聴者に支持されつづけてきた理由はどこにあったのだろう(最近は下火になったのかもしれないが・・)。大河ドラマの草分け的ディレクタ、吉田直哉は、その著書「映像とは何だろうか」で次のように述べている:
私が担当した大河ドラマでは、史料など無視しろという乱暴な声も寄せられた反面、逆に史料考証のさまざまな過程をみせてほしい、という視聴者の声もじつに多かったのである。『太閤記』でも『源義経』でも私は、ドラマを中断して「その場所はいま・・・」を描くシーンをしばしば挿入した。合戦が行われた場所に突然パワーシャベルやクレーンが映り、その古戦場はいま、宅地造成が行われ巨大団地に変わりつつある、といった説明を入れたので「社会化ドラマ」の異名を頂戴することになった。これも過去と現在の対話のつもりであった。むろん反論もあったが、意外なほど支持者も多く、もっと社会科を!という激励の声はずいぶん寄せられたのである。
なぜ、もっと考証を! もっと社会科を! になったのか? 当時の活字作品をめぐるいわゆる歴史ブームと、それはけっして無縁ではないであろう。しかし同時に、映像の本質ともまた無縁ではなかろう、と私は考えていた。(岩波新書、吉田直哉著 「映像とは何だろうか」 p.170-171)
現在でも、NHKの大河ドラマの終わりには、物語と関係ある「現在」の風景が映される。「その場所はいま・・・」が描かれている。このルーツは、吉田直哉さんのアイデアにあるようだ。テレビという映像媒体を通じて、活字では表現できない物語の時代的背景を現在に結びつけることにより、大河ドラマを、「社会科ドラマ」として成功させたわけだ。
ここに、これまで、NHK大河ドラマが視聴者に支持されてきた秘密があったように思う。NHK大河ドラマは、時代的背景から大きく逸脱した「創作的」物語ではなかったのである。
残念ながら、NHKの「龍馬伝」、私の見る限り、「創作的」物語に重点を置いてしまっているようだ。
ということで、「竜馬がゆく」と「龍馬伝」の比較をしてきた「シリーズものエントリー」、これをもって打ち切りにすることにした。
最後に一言、
司馬遼太郎の幕末もの、「竜馬がゆく」、「翔ぶが如く」、そして「坂の上の雲」は実に面白い。
危機にあるわが国の進路を考えるうえで、必読の書だ。