「竜馬がゆく」と「龍馬伝」(その4)
July 25, 2010 – 2:41 pmNHKの「龍馬伝」第29回「新天地、長崎」(2010/07/18放送)でいよいよ長崎の地が登場してきた。龍馬の活躍も、あらたなフェーズに移ることになる。楽しみだ。
しかし、この「龍馬伝」、神戸海軍塾の閉鎖から、龍馬たちが長崎を拠点とするまでのいきさつが今ひとつ明確に描かれていない。また、司馬版の「竜馬がゆく」と大きく異なる。
このあたり、司馬ファンの私としては、竜馬の活躍を理解するうえで重要な部分ではないかと思っている。
ということで、多少、長くなるが、司馬版「竜馬がゆく」の関連部を抜粋しながら、このあたりをメモしておくことにした。
NHKの「龍馬伝」では、前回(その3)で書いたように、「勝海舟の斡旋で操船技術をもつ龍馬たちを薩摩に引き取ってもらう」ことになり、「リクルートされた」龍馬一行が薩摩に行く途中に立ち寄った長崎に居つくというような筋書きになっている。
このあたり、NHKのWeb版あらすじでは、次のように書かれている:
神戸の海軍操練所が閉鎖され、龍馬(福山雅治)たち脱藩浪士は薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)と小松帯刀(滝藤賢一)に身を預け、大坂から薩摩へ航行中、長崎に立ち寄る。小松や西郷は、蒸気船を操る技術を持つ龍馬たちに、薩摩の船の操船をさせようと考えていたが、龍馬は近藤長次郎(大泉洋)や沢村惣之丞(要潤)らとともに、藩の世話にならずに生きていく道を探そうとする。
この筋書きでは、龍馬の長崎行きの話、偶然の成り行きかのように描かれる。
司馬版「竜馬がゆく」のファンとしては、肝心なところがスキップされてしまっているとの、印象を受けてしまう。竜馬たちが長崎に移る過程は、後の竜馬の活躍にとって、極めて重要な部分なのだ。
竜馬による軍事会社のアイデア: 神戸海軍塾の閉鎖が決まったあと、その後の身のふりかたを考える竜馬と勝海舟は相談する。そのなかで、竜馬は誰もが考えも及ばなかった「奇想天外」なアイデアをだす。このアイデアこそ、竜馬一行が長崎で亀山社中を設立に至る肝ともいうべきものなのだ。
「竜馬がゆく」の関連部分を抜粋してみよう:
塾生が、すでに諸藩の士、浪士などをとりまぜて二百余人にまでふえていた。あと始末としては、諸藩から派遣されている士はそれぞれの藩にかえせばよいが、半数を占める浪士の始末をどうすればよいか。これは大問題だった。
・・・江戸に発つ勝と竜馬は、このことについて語り合っている。
「幕吏は狡猾なものさ」
と、勝は自分が幕府の高官のくせに、そんなことをいった。
「解散になってみな。諸藩に士籍のある連中が帰ったあと、脱藩の連中がのこる。これは天の下に雨露をしのぐ場所がない。幕府は馬鹿会津を」
と、勝は、佐幕派の会津藩に好意を持っていない。新撰組などをつかって人を斬ってばかりいる政治感覚のなさは、所詮は幕府をほろぼすものtになると考えている。
「馬鹿会津をそそのかせて、えたりかしこしと捕殺しにくるにちがいない」
そのとおりだろう。幕吏が来なくても、土佐藩の警吏が竜馬らをとらえにくるのは必至だった。いままで、勝の看板で、みな遠慮をしていたのである。
「竜さん、どうする」
と勝がきくと、竜馬はちょっと考え、ぼんやりと庭の野菊を見つめていた。
じつは驚天動地の妙策がある。しかしどうも夢のような案で、実現できるかどうか、竜馬も自身がない。
「さあ、どうするえ?」
と勝がかさねてきくと、竜馬は勝がおもいもよらなかった案を言い出した。
軍事会社をつくる、というのである。
つまり、私設艦隊である。金や軍艦は、いわば「株」として諸藩から出させ、平時は通称をして利潤を分配し、いざ外国が攻めてきたときは艦隊として活躍する。
「おもしろい」
勝は、ひざを打った。同時に、竜馬という男のふしぎな頭脳にあきれもした。それができれば、西洋で行われている「会社」というものを日本で誕生せしめる最初になるし、しかも独創的なことは、戦争と通商の浪人会社なのである。
その上、大株主として、薩摩藩を考えています、と竜馬はいった。
「それも名案だ。ついでに、どうだろう、薩摩藩御抱えという名義にしてもらえば?」
そうすれば一同の身は安全である、と勝はおもった。親切な男であった。(文春文庫 第五巻 p.296-298)
このアイデア、神戸海軍塾の閉鎖でピンチに陥った起死回生の考えだ。このアイデアを携えて、竜馬は、再び、京都の薩摩藩邸に西郷を訪ねる。
京都、薩摩藩邸での交渉: 勝海舟と相談したなかで生まれた「軍事会社」のアイデア、薩摩藩邸で、西郷吉之助、そして薩摩藩家老、小松帯刀に説明される。薩摩藩の両者、竜馬の考えに引かれ、神戸海軍塾の浪人を薩摩藩邸に引き取ることになる。
このあたりについて「竜馬がゆく」の記述を抜粋してみる:
竜馬は、小松と西郷に、海軍と海上貿易の急務なることを説いた。
ふたりはいちいちうなずき、
「わが藩は、薩英戦争で艦船のなきことをどれでけ後悔したかわかりもさん。勝先生と坂本サンに期待するのは、そこでごわす」
と、西郷はいった。西郷は、薩摩海軍の成長のために、勝や竜馬の応援が欲しかったのであろう。
竜馬は、薩摩藩のそういう欲求を、十分に察していた。
・・・・
「・・・それで坂本サン、今後はどうなさるおつもりでごあんど?」
「考えちょうが、大望ゆえ、話して断れては拙者の赤面モノじゃ。ぜひ貴藩のお力添えが要るが、承知してくださるか」
という意味のことを、竜馬はゆっくりといった。むろん竜馬はぬけめなくつけ加えている。
「貴藩にとって巨大な利益になることです」と。
(利益に。---)
という竜馬の言葉が、薩摩藩家老小松帯刀の心をさわやかに刺激した。・・・
ここで竜馬は、船を持ち通商を行なえれば、薩摩藩に莫大な利益をもたらすことを、詳細に説明する。この竜馬の説明、実に面白い(以下、抜粋):
「するめが、大砲になる話をごぞんじでござるか」
と竜馬はいった。
「船さえあればそれができる。たとえばするめの産地である対馬藩を説き、かの藩のするめを買いとって上海へもってゆく。かの地ではわが国のするめが十倍にも売れ申す。するめにかぎり申さぬ。上海で売れる商品は、日本茶、椎茸、昆布、鶏冠草、白炭、杉板、松板、棕櫚皮、煎海鼠、干鮑、干貝、干海老、・・・」
「ほほう」
と、西郷も笑い出した。
竜馬も釣りこまれて苦笑した。竜馬は兵庫や大阪でものの値段と海外市場をできるだけしらべ、国際市場でなにがもうかるかを考えていた。するめや椎茸の値段を知ることが、かれの尊王攘夷論であた。
「米でもよろしい」
と竜馬はいった。
「なるほど貴藩は、水田がすくなく、米を上海で売るほどにはござるまいが、たとえばここに船があるとすれば、奥州の津軽藩や庄内藩からありあまった米を買いとり、上海相場を長崎でしらべて巧みに売りだせば、大利を博することができる。それらの利潤でもって上海の兵器商人から、大砲、軍艦、機械を買いとれば、薩摩藩は単に七十余万石の一諸侯ではなく、東洋の富国になり申そう。その富国強兵策をもって攘夷の実力を養う。百の空論よりも、一のするめが肝要である」
この時期、幕府は、よく知られているように、開国により諸外国との通商に乗り出しながら、諸藩に対しては、従来どおりの鎖国令により、貿易・通商を幕府の独占事業とする方針をとっていた。こうした動きに対し、薩摩藩は危機感を抱いていた。
この竜馬の提案に対し、薩摩藩家老、小松帯刀は竜馬たちを後援することを表明。竜馬は、薩摩藩が竜馬たちの「浪人団体」の大株主になることを提案する。
「坂本さん」
と小松帯刀は身を乗りだした。
「足下の案を言うてくだされ。われわれ薩人には、人を信ずればその行蔵(出所進退)のすべてを信ず、という風習がござる。坂本さんのなさることなら、わが薩摩藩の力をおよぶかぎり後援したい」
「されば」
と、竜馬は例の浪人会社の一件を言い、薩摩藩をもって大株主になってくれ、いや、なるべきである、と説いた。
「ここに一大海上藩を出現せしめるんじゃ」(文集文庫 第五巻 pp.313- 317)
この三者の会談後、神戸海軍塾の浪人塾生たちは薩摩藩により保護されることになる:
西郷は、竜馬が辞し去ったあと、家老小松帯刀と相談して、こんど解散になる神戸海軍塾の浪人塾生たちのために大阪の薩摩藩邸の一棟をあけて収容し、あくまでも薩摩藩が保護してゆく、という方針をきめ、宿舎になる大阪藩邸に対してはさっそく準備させる・・(文集文庫 第五巻 p.323)
このながれ、随分、NHKの「龍馬伝」とは異なる展開になっているのではないだろうか。史実は、どうであったのかは、私は知らない。しかし、司馬版「竜馬がゆく」で描かれている流れが、私は好きだ。さらに言うなら、「龍馬伝」の龍馬は、過小評価されているのではないか、と思ってしまう。
龍馬一行、長崎へ: NHKの「龍馬伝」では、冒頭のNHKあらすじにも記述されているよう、薩摩に向かっている竜馬達が「たまたま」長崎に立ち寄るような筋書きになっている。が、しかし、司馬版「竜馬がゆく」では、まず薩摩に、そして長崎に向かう。旅の最終的な目的地は、明らかに長崎となっている。
そのあたりに関連する部分を「竜馬がゆく」の記述を抜粋してみよう:
竜馬は、鹿児島へゆくために大阪天保山沖から、薩摩藩の汽船胡蝶丸に乗った。(竜馬の)手帳によると、
四月廿五日 阪(大阪)ヲ発ス
五月一日、げいふ(鹿児島)ニ至ル
とある。
この船には薩摩藩家老小松帯刀、西郷吉之助が同乗していた。むろん陸奥陽之助ら竜馬の同志も全員この船に乗っている。いや、乗っているどころか、船を運転していた。(文集文庫 第六巻 pp.44-45)
そして、薩摩到着後の様子。ここでは、薩摩への上陸は竜馬のみ許される:
--いや、全員の入国はこまりもす。
と薩摩の国役人にいわれたため竜馬はやむなく旧神戸塾の同志一同を胡蝶丸の船内に起居させ、自分だけは西郷ら薩摩人につきそわれて上陸した。(文集文庫 第六巻 p.51)
薩摩に上陸した竜馬は、まず西郷の家を宿舎とし、その数日後、家老小松帯刀の屋敷に移る:
その日から竜馬は、家老小松帯刀の屋敷を宿所とあてられた。
ここでかれは、つぎつぎに訪ねてくる藩の要路の者や有志に会い、竜馬の入薩の最大目的である海軍会社建設のことを説いた。
「平時は、商売ですらァ」
といった。このことは、元来密貿易熱心なこの藩の役人にひどく魅力的だった。
「長崎に根拠地を置き、内国貿易では長崎大阪のあいだを往復し、密貿易にあたっては長崎と上海間を往復する。往復するだけで莫大な利益になります」(文集文庫 第六巻 p.60)
竜馬は、このように薩摩藩士に、自らの計画を説明し、結果、船(風帆船)の購入、竜馬とその神戸塾の同志全員の経費について、藩費でまかなってもらう「契約」に成功するわけだ。
長崎上陸と亀山社中: いよいよ薩摩から長崎に一行は移動する。希望に満ち、満ちた思いで長崎に上陸する:
船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、
「長崎は、わしの希望じゃ」
と陸奥陽之助にいった。
「やがて日本回天の足場になる」
ともいった。竜馬の「会社」は、すでに薩摩藩の大株主に入れることに成功している。あと、長州藩を入れたい。
・・・
「金が儲かることなら、薩摩も長州も手をにぎるだろう」
と竜馬は政治問題がむずかしければまず経済でその利を説くつもりであった。(文集文庫 第六巻 p.68)
司馬版「竜馬がゆく」、実にわれわれに希望を与えてくれる。読者である私自身、竜馬の持つ希望を共有した気分になる。
そして、薩摩藩士の準備した旅館に入った神戸塾浪人一行、薩摩藩士により、拠点となる家屋を提供される:
「さて、御一行の仮り陣屋ですが」
と、(薩摩藩士の準備した)旅館にはいると、長崎の薩摩藩士が竜馬にいった。
「長崎は土地が狭く、手ごろな家屋がなかなかみつかりません。そこであの岡に」
と、障子をあけ、港の南側にのびのびとひろがっている亀の背のような岡を指し、
「一つあるのです」
「ほう、あの土地は何といいます」
「亀山です」
日没までまだ時間がありそうだから、竜馬はさっそく検分に出かけた。
・・・
竜馬はこの家屋が気に入り、自分たちの団体名もとりあえず、
「亀山社中」
と名づけた。(文集文庫 第六巻 pp.69-70)
ここに、有名な「亀山社中」が誕生するわけである。
司馬版「竜馬がゆく」、NHK版「龍馬伝」と、随分、異なる展開になってしまっている。