鳥飼玖美子・斎藤兆史著 「迷える英語好きたちへ」を読んでみた

November 8, 2020 – 2:09 pm

若いときからずっと英語という教科には悩まされてきた。そして、今も、相変わらず悩まされ続けている。英語という言語を習得するために人一倍努力をしたにも関わらずである。正直、自分の語学学習能力の低さには、我ながら、情けなく思ってしまう。

日経の読書欄で本書をみつけた。著者に、英語教育で知られている鳥飼玖美子さんがあったことから、英語に悩まされてきたひとりとして、英語というか語学の教育が習得がどのように議論されているかに興味をもち読んでみることにした。

本書では、全体を通じて、英語という言語を学ぶということがいかに困難なことであるかを、教育する側、学習する側、両方ともが思いしるべし、と主張されていた。改めて、英語を学び、そのうえで楽しむためには、相当の努力が必要で、一朝一夕では成し遂げられることではないということを再確認させてくれた。

以下、自分の英語学習歴を振り返るとともに、本書で興味深く思ったところをメモしておいた。

私の英語学習歴
本書「迷える英語好きたちへ」の中身に触れるまえに、私の英語学習歴に整理してみた。

大学受験の際、英語というか語学が不得意で、英語の配点比率が低い大学を選んで受験したことを思い出す。大学院に進学したときには、先生から英語のスコアが低すぎ心配されたりもした。研究成果を論文にするときにも、英語の学術雑誌に投稿するのが当然とされていたので、本当に苦労した。

仕事上、成り行きではあったが、3年間の海外生活を送ったことがある。英語圏ではなかったが、日常的な会話は殆ど英語という生活を送った。英語のスキルを高めねばということで、International Herald Tribuneを定期購読したり、BBC放送を毎日数時間も聴いたりもしていた。

海外生活を終え、英語を改めて学ばねばということで、サイマルアカデミーという語学学校に通いもした。この語学学校、通常のコースを修了した者に対しては、通訳者とか翻訳者の養成のためのコースも準備されていた。一応は、翻訳者養成コースまで進むことはできたが、自分が期待したレベルには到達できなかったように思う。

英語教育の現状は惨憺たるもの
大学入学共通テストにTOEFLなどの民間試験の導入が計画されているようだ。本書では、英語教育にとって、こうした動きがいかに危険なことであるかが主張され、批判されている。

文科省の英語入試改革は、「従来のセンター試験は『読む・聞く』の二技能だけだからダメだった、これからは『話す・書く』の技能を加えた「四技能」を測定する民間試験を」ということのようだ。

外国語教育において「四技能」の獲得について、鳥飼さんは以下のように説明する:

 外国語という異質な言語を習得する際には、母語獲得は違いがあります。母語と同じように膨大な時間をかけてゆっくり「聞く」「話す」から入るのは効率が悪いので、内在している母語力を活用しつつ、「読む」ことを土台に、「聞く」「書く」「話す」ことを学びます。
 この際、忘れてはならないのが、「四技能」をバラバラに切り離して勉強するのでなく、有機的に関連づけながら総合的に力をつけることです。・・(p.44)

「話す」「聞く」の二技能のうえにたって、「書く」「話す」二技能が獲得されるというプロセスを無視してはならないということが主張されている。

斎藤さんも、言語習得のプロセスを無視した教育法について以下のように述べている:

・・子供たちに「シャワーのように」英語の「インプット」を与えることの重要性を強調するひとがいますが、文法も発音もあやしい英語(らしき破調の言語)で話しかけたこところで毒にしかなりません。外国語学習には外国語学習の手順があるのです。(o.62)

母語で思考することの大切さ
英語教育の話ではあるのだが、結局のところ母語による思考に勝ることはないと主張される。英語を含む外国語教育は母語をないがしろにすることではない。英語を翻訳というかたちで母語、日本語のなかに取り込む重要性について議論されている。
 斎藤さんは、ノーベル賞を受賞した益川氏が日本にノーベル賞受賞者の多い理由について、「日本語で最先端のところまで勉強できるのではないか」「自国語で深く考えることができるのはすごいことだ」と発言していることを紹介し、次のように述べている。

 日本は世界に冠たる翻訳大国でした。ノーベル賞を受賞する日本人がこれほど多い背景には、明治以来、外国語を翻訳して、その文化や技術を日本語で咀嚼する高度な文化があったことを忘れてはいけません。英国の植民地だった国と違って、日本は母語の文化が強いんです。ほかにノーベル賞受賞者を輩出している国、たとえばドイツ、フランス、ロシアなどもどうですよね。(p.105)

たしかに、日本語が外国の文化や技術を咀嚼する高度な文化であったことはそうであろう。しかし、昨今の英語偏重の傾向は、日本の文化の劣化がもたらしたものとも受け取ることができる。英語教育が母語、日本語、そして日本文化の重要性をないがしろにすることにこそ問題があるようだ。

どのように英語を学ぶべきか
渡邊さんは、「一連の英語教育改革によって、学生の英語能力はおちてしまっっている」とし、その理由が「日本語を母語とする人間にふさわしい学習法」が否定されてしまったからだ、とする。

その日本人にとってふさわしい学習法のひとつとして、江戸幕府の「通詞」の教育法を紹介している。次のようなくだりだ:

江戸幕府には「通詞」と呼ばれる公式な通訳・翻訳担当の役人がいました。彼らは、いわば語学のプロ集団だったわけですが、その外国語教育法は、最初は文典を叩き込み、素読・読解をさせ、それができるようになって初めて、母語話者と会話をさせるという順番のものでした。
 ・・・
通詞に代表されるように、日本の語学の達人が実践してきた勉強法は、まず文法と読解で力をつけて、その後で聴解や会話に進むというのが伝統的な流儀でした。(pp.110,111)

耳の痛い話だ。

私自身の語学学校での経験だが、文法の勉強をやり直す必要ありと評価されたことを思い出す。

やはり、私の英語が費やした労力の割には上達しなかったのは、中学、高校を通じて文法をきちんと勉強してこなかったことに起因するのかもしれない。反省させられる。

英語学習には王道というのがある。「まず文法と読解で力をつけ」、そのうえで聴解、会話というプロセスにつきるようだ。

カタカナ英語と小池東京都知事
本書の著者ふたりともがカタカナ英語の氾濫に危機感を抱いている。渡邊さんは、その原因のひとつとして、日本語の母語としての基盤が揺らいでいることを心配し、以下のように述べる:

明治の日本人は、西洋の文物を日本に紹介する際、それを表すもともとの語を翻訳して日本語の文脈に乗せる工夫をしました。おかげで、日本語を母語とする日本人は、母語でしっかりと考え、学ぶことができるようになりました。日本における学問研究の水準の高さは、母語による思考の精度の高さでもあります。ここにきて、その母語の基盤が揺らいでいます。みんながきちんと理解しているかどうかも不明なカタカナ英語を「てにをは」でつないだような日本語(?)が増えています。(p,152)

コロナ禍でいろいろなカタカナ英語が作られ拡散されている。オーバーシュート、クラスタ、ソーシャル・ディスタンス、ロックダウン、東京アラート、ステイホーム、ウイズコロナ、GoToトラベルなどだ。コロナ禍前には、インバウンドなどという意味不明の用語もあったりした。

取り上げれば数えきれないほどの「カタカナ英語」が蔓延している。

そのなかには、小池東京都知事を「起源」とするカタカナ英語が多いのには閉口する。気取って英語もどきの「カタカナ英語」で人心を惑わす都知事というひとをどのように考えれば良いのかと考えたこともある。

渡邊さんは、(小池都知事を直接名指ししているわけではないが)カタカナ英語を使いたがるひとについて次のように言っている。

やたらにカタカナ英語を連発する人にあったら、ああ、この人は英語に憧れているのに、それを使いこなせないからこんな風に日本語のなかにカタカナを使って、それで英語を使っているような気分になっているのだ、かわいそうに、と哀れむくらいでちょうどいい。(p.155)

なるほどと思ってしまう。
 


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