鈴木達治郎著「核兵器と原発 日本が抱える『核』のジレンマ」を読んでみた
May 4, 2018 – 8:54 am本書の著者、鈴木達治郎は、福島第一原発事故発生時に原子力委員会の委員長代理の職にあった。日本の原子力政策推進の司令塔ともいえる立場だ。
事故から7年経過した今、こうした責任ある立場にあった著者が、事故後の福島そして日本の原子力産業の動向をどのような思いで見ているのかを知ることができればと思っていた。このことが、私が本書を手にした動機のひとつだ。
本書を一読した印象を述べると、本書から、原子力をめぐる動向に対する筆者の苛立ちともいえる思いは伝わってくる。しかし、残念ながら、原子力産業に対する筆者の立ち位置がそう明確ではないと感じてしまう。福島事故後の日本の原子力業界の迷走が、そのまま著者自身の困惑を表しているような印象だ。
福島第一原発事故から7年経った時点での著者の思いが本書の「はじめに」に書かれている。以下、関連部を抜粋:
・・東京電力福島第一原子力発電所の事故が、その後の私の人生と価値観を大きく変えることになった。
・・原子力政策を根本から見直さねばならない。そういった思いから、当時原子力委員として、「国民的議論を通じて、原子力政策をゼロから見直す」作業に全力を尽くした。
しかし、6年以上経った今、あの時の危機感を共有している人が、どれだけいるのだろう。はたして、日本は本当に「福島事故の教訓」を学んでいるのだろうか。私の実感は「ノー」である。国民的議論は全くと言っていいほど行われておらず、「ゼロから見直す」という当時の意欲はもはや影も形もない。(pp.3-4)
著者、鈴木達治郎にとって、福島第一事故のインパクトの大きさは良くわかる。しかし、鈴木の携わった「原子力政策をゼロから見直す」作業は、この6年を振り返ると、何の進展もなかったと総括されている。彼が進めようとした(民主党主導の)「国民的議論」は機能しなかったようだ。
果たして、そうなのか?ここで不思議なのは、未だ、国民の大多数は、事故後。原子力を事故前同様に推進することに否定的なのではないか?一体、著者のいう「国民的議論」の国民とは誰をさしているのだろう。単に、当時原子力を推進する立場にあった鈴木の周辺、原子力関係者を指して「国民」といっているのではないのだろうか。
本書を読み進めての私の個人的な印象でしかないのだが、原子力産業の行く末に対して鈴木がどのような立ち位置にあるのか明らかになっていないのである。我が国の原子力産業をいかに再編、見直すか、ということは議論されているが、彼の「ゼロからの見直し」には脱原子力というシナリオは含まれていない。
本書の構成は、4章からなる。以下:
第1章 巨大エネルギーの「光と影」‐核兵器と原発の密接な関係‐
第2章 衰退期に入った世界の原子力産業‐原発の何が問題なのか―
第3章 63年ぶりに危機的状況となった「終末時計-核の脅威にどう対処すべきか-
第4章 「核の傘」は神話に過ぎない―「核抑止」論から脱却するには―
これら章のうち、二章で福島第一事故に直接関連する課題について議論されている。その他の章は、いわゆる「核」問題を中心に議論し、これとのかかわりで原子力について議論されている。
原子力について議論しようとすると、その誕生から広島・長崎の被爆、そしてNPT問題を抜きには議論できない。筆者の現職が長崎大学核兵器廃絶研究センター・センター長であることを考えると、「核」問題を通じた原子力問題、核燃サイクル問題に対する解説・議論は傾聴に値する。
福島事故の教訓は何なのか:
ここでは、福島事故発生を契機とした著者の原子力産業に対する見方について本書の記述で印象に残ったことを以下メモしておく。
事故発生前は、「技術的には安定したパフォーマンスを示していたので、日本で過酷事故が起きるとは夢にも思っていなかった(p.54)」というが、事故発生後、著者の確信は崩れ去る。
以下、そのくだりを書いたところを転載する。長くなるが、著者が、福島事故のなんたるかを著者自身のことばで書き記している部分だと思う。
・・福島事故はその確信を根本から崩したのである。まず何よりも、安全性を「リスク評価」で測る工学的な考え方に対して、抜本的な見直しが必要と感じた。
たとえば、発電技術のリスク評価は定量化できる指標として、「単位エネルギーあたりの死者数」を使うことが普通だ。この指標に基づくと、もっともリスクの高い発電技術は石炭火力であり、原子力は自然エネルギーと並んでもっともリスクの低いエネルギー技術とされる。私もその評価に基づいて、これまでエネルギー選択の政策研究を行ってきた。
しかし福島事故は、この指標だけによる評価ではまったく不十分であることを明らかにした。
第1に、確率論に基づく評価の限界である。
リスク評価には事故確率が前提条件として含まれている。その確率は、IAEAの設計基準からいくと100万炉年に1回とされているが、今回の事故は日本の運転経験から行くとわずか1000炉年に1回(50基運転しているとすれば、20年に1回の確率)という1000倍も高い確率となってしまう。
また、原因となった大津波は1000年に1回の規模だったといわれるが、地震と大津波で電力回復が遅れてしまうような「複合災害」の確率を想定するのは難しい。したがって、この設計基準に基づくリスク評価の信頼性は、今後見直される可能性が高い。
そもそも、原子力業界は事故確率が統計的に想定できるほど、運転経験や事故回数が十分でなはない。これが、保険料を想定できない最大の理由であり、そのような技術のリスク評価はきわめて困難ということが、今回の事故で明らかになったのである。
第2に、放射性物質による環境汚染の深刻さである。
放射性物質による土壌、大気、海洋、河川、森林といった自然環境への汚染が、社会経済に以下に深刻な影響を与えるかということを、福島事故は明確に示した。汚染地域の除染作業だけを考えても、他の産業事故がもたらす規模をはるかに凌駕する損害となった。しかも、海洋や大気汚染は国境を越えてその被害が広がる。水の汚染は食物、生物に深刻な影響を与えるのである。
そして、もちろん、汚染地域の住民の人生を大きく変えてしまう。これらを考えると、原子炉の過酷事故による大量の放射性物質放出は、絶対に許されない、と考えるべきであろう。これは、単なる確率の問題ではないのだ。
第3に、人道的・倫理的課題である。
避難を余儀なくされた方々は10万人を超す。そして、6年後の今でも、その5割以上の方々がまだ避難生活を余儀なくされている。避難された方々にはそれぞれの生活があったが、それが一瞬にして、壊されてしまったのである。地域には先祖から引き継いだ伝統や文化もあったがその継承が途絶える可能性も否定できない。さらに、避難生活によるストレス、家族内での対立、離婚や別離などの家庭崩壊、生きる意味を見失って自殺する人なども続出した。
そして、放射線の健康に及ぼす影響についても、いつ発症するかと一生心配し続けなければいけない心の問題や、被災者への差別問題など、直接事故で亡くなる方がいなかったとしても、原発事故は人道的・倫理的な面からは、きわめて深刻な盈虚を与えてしまったのである。
こういった、社会・経済・人道的被害の深刻さを考えると、原発事故の持つリスクの特殊性は明らかである。工学的なリスク評価ではとても測ることができない。この現実を目のあたりにした以上、原発事故のリスクに対し、これまでとは根本的に異なる評価を出さざるを得ないのは当然だろう。
放射性物質の環境への大量放出は、人間社会を破壊する。原発事故の深刻さは、このような社会・経済・人道的影響が長期にわたって続くことなのである。
事故を二度と起こしてはならない。この反省こそが、今後の原子力政策を考えるベースになるべきだ。これが福島事故を体験した私の率直な思いである。(pp.55-57)
本書の著者の思い、私自身の思いと重なる。全くそのとおりだ。
本書の著者は、脱原発あるいは反原発を標ぼうする社会運動家ではない。事故発生時に、我が国の原子力政策の司令塔としての役割を負っていた原子力委員会委員長代理なのである。しかも、原子力委員会委員としてだけでなく、原子力の安全性評価を専門とする研究者であったのである。その彼をして、上に引用した思いを述べたという事実は重い。
この福島事故から導かれる結論は、当然のことながら、脱原子力ということになるのではと思われるのであるが、・・・。