福島第一事故調の委員長、畑村洋太郎教授の「失敗学」
June 10, 2011 – 10:16 pm福島第一の事故調査委員会の初会合が7日に開かれた。日経の記事(6月7 日web刊)ではつぎのようになっている。以下、抜粋:
東京電力福島第1原発事故で、事故原因や法規制のあり方などを検証する第三者機関「事故調査・検証委員会」(委員長・畑村洋太郎東大名誉教授)の初会合が7日、東京都内で開かれた。年内に中間報告をとりまとめた上で、来年夏までに最終報告をまとめる方針。
・・・
畑村委員長は「原子力は危険なもの。安全とされてきたことは間違いと思っている」と述べ、可能であれば6月中にも福島第1原発への現地視察を行う意向を示した。また、「原因究明の動作ができなくなってしまう」として責任追及は目的としないと名言。「国民や世界の人々が持っている疑問に答え、100年後の評価に耐えられるものにしたい」と語った。
畑村教授の「失敗学のすすめ」: 事故調の委員長の畑村東大名誉教授は、私の理解する範囲では、「失敗学」なる学問分野を創設したので有名なかたである。関連する(一般向け)著書に、「失敗学のすすめ」、「失敗学の法則」なんてのがある。
ちょうど1年前に、近所の公立図書館でこれら著書をみかけ読んでみたことがある。そのときの感想を簡単にTwitter上に書いているのを思い出した。以下、Twitter上の文を書き出してみることにした。
失敗学とは?: まず、「失敗学」なる名前の由来について以下のようにかかれている:
立花隆さんとお会いした際、失敗についての話をいろいろしたところ、「それだけ広範囲に失敗をとりあげるんだったら、『失敗学』というひとつの学になりますね」といわれたので、その言葉を使わせてもらった。(「失敗学のすすめ」p.25)
立花隆が本気で畑村教授の失敗にかかわる話を評価したかどうかはさだかではないが、かなり広範囲の事象を研究の対象にされていたようである。
失敗の研究でなにが期待されるのか?: 私が読んで印象に残った部分は次の部分:
真の(科学的)理解というものは、方程式が解けるとか、法則をやみくもに覚えているというものではなく、ある現象の因果関係がきちんと理解できる状態をいいます。しかも、蓄えられた知識を、自分で自由に使えなければなりません。
現象のモデルがその人の頭の中にできあがっていて、条件変化などによる現象の変化がわかっているからこそ、予期せぬ事態への対応もできるのです。そしてさらに新しい課題もせっていできるのです。
(p. 137)
このあたり、広い意味で「失敗」をどうみるか?あるいはいかにしたら「失敗」を避けることができるのか、という意味で重要なことが述べられているものと思う。ポイントは「現象のモデルがそのひとの頭の中」に持つことにより「予期せぬ事態」に対処できる、というところだ。
これとは逆に、「ルール作り」「マニュアルの精緻化」を通じた予期せぬ事象への対処のしかたがあると思う。今回の東日本大震災そして福島第一原発の事故で、「マニュアル」のもつ限界、負の効果ということが議論されていると思う。畑村調査委員会、このあたりをどのように取り扱われるのか、興味深い。
問題は原子力のような巨大技術に対して、適切な「現象のモデル」をひとの頭のなかに形作ることが可能なのか?というあたりではないか。「失敗」一般をいくら掘り下げ、研究し、今回の原発事故のような「巨大技術」で発生した事故に対処しようとしても、なかなかうまくいかないのではないか、と考える。
以前、高木仁三郎の「プルトニウムの恐怖」の読後感として、「高木仁三郎が警告した巨大科学技術文明の抱える問題とは」を書いたことがある。ここで、高木が鋭く指摘した巨大技術、原子力の持つ危うさを乗り越える議論を、畑村事故調はおこなうことができるのか?注意深く、見てゆきたいと思う。
「失敗学」はたんなるハウツーなのではないか?: 私が、ふたつの著書を読ませてもらった印象は、上記したような積極的な視点にあわせて、多少、疑問を持つような部分があった。なにか、世俗的なハウツーものという側面を感じた部分だ。一般向けの解説ということで、畑村教授の真意はそこになかったのかもしれないが・・・。以下のような記述がある:
致命的な失敗を身のまわりにおこさせないためには、上司の力量を見極めておく必要もあります。その人がダメ上司かどうかを判断し、問題ありの場合は、いざというときに直訴できる別の管理職をみつけておく必要があります。(p.221)
読み物としては、とても面白い。しかし、うがった見方をするなら、困ったら派閥でも作っておいたほうが良いよ、なんてようにも読める。
正直なところ、このあたりを読んで、学問としての「失敗学」の限界を感じてしまった。なるほどと思う部分は多いが、「学」と名のつくようなものではないな、と思った。さらに、この著書に続く「失敗学の法則」にいたっては、明確にハウツー本の性格を強化しているように感じた、との記憶がある。
「失敗のデータベース化」、そしてその分析というのが、失敗学の基本に据えられていたように記憶している。個別の「失敗」が、本当に、普遍的な法則まで高めることができるのか、福島第一事故調査委員会の動きは興味深い。