舘野淳著「シビアアクシデントの脅威」を読んでみた

June 28, 2014 – 11:21 am

福島第一原発事故発生から3年以上の月日が流れた。事故発生以来、反・脱原発の主張を中心に、様々な議論が展開されてきた。関連本も数多く出版されている。
本書も福島第一事故関連本のひとつにくくることができるのではあるが、他の脱原発論議とは一線を画しているように感じた。副題を「科学的脱原発のすすめ」としているところに、本書の主張が凝縮されているようにも感じる。
印象に残ったところをメモしておいた。

問題は「原子力」ではなく「軽水炉」 : 著者、舘野淳の主張は、一言でまとめると、「問題は『原子力』一般にあるのではなく、今原子力利用の主流となっている『軽水炉』体制にこそある」ということのようだ。

原子力の開発が軽水炉を中心に展開されることになり、他の原子炉形態の開発が行われなかったことについて次のように述べている:

原子炉をより安全にするためには、「原発は軽水炉」という固定観念から解放されて、自由により安全な開発研究がすすめられなければならなかった。しかし軽水炉の普及が進み、一種の世界標準になると、それは容易なことではない。特に、軽水炉の持つ、シビアアクシデントという欠陥が、これまで述べてきたように開発史のなかで隠蔽されたり、意図的に軽くみられるように仕組まれていたなかでの、新規の炉の開発は極めて困難であった。(p.94)

米国の軽水炉売り込みとその経済的競合性の確保 : 著者によれば、米国は軽水炉を開発しそれを売り込むため、「スケールメリットを通しての大型化、そしてコンパクト化などの技術的改良を強引に図った」とされ、それこそが「軽水炉」の持つ本質的な欠陥へとつながると主張される。

1957年にはGE社がドレスデン1号炉(BWR,21万kW)を建設。これで今日、台数ペースで世界の原発の80%を超えている軽水炉の「祖型」が出揃った。しかし発電用原子炉が実用化されるか否かは、火力発電との経済的競合性にかかっていた。すなわちドレスデン1号炉などの第一世代の原子炉では、発電原価は化石燃料の2~3倍であった。このため、スケールメリットを通しての大型化やコンパクト化などの技術的改良が、この時期に強引に推進された。

このようなスケールアップとコンパクト化について、日本原子力産業会議の動力開発課長であった川上幸一氏は「スケールアップのこのような加速ペースは、先行設備の運転後にスケールアップ設備に着手してきた、火力の常識をも破るものであった。それをGE社が考えたかは、火力のボイラーに相当する圧力容器の製造に成功すれば、後は火力設備と基本的に同じで、火力では経験済みのスケールアップがそのまま通用するという、前述の在来機並みの発想に由来していたと解するほかない。(中略)オイスタークリーク当時の機械的な技術観が後に災いの種を残したことは否定できない」と述べている(川上幸一著『原子力の光と影』電力新報社、1993年)。軽水炉の基本設計はこの時期にほとんど決まってしまい、後は格納容器の改良や、緊急炉心冷却装置(ECCS)の改良がおこなわれた程度である。したがってこの時期に、どのような設計思想の下に開発が行われたかを知ることは、現存の原発の安全性を検討するうえからも、また科学史的にもきわめて重要である。

「軍事化された科学」から生まれた軽水炉技術開発では思いもよらない猛スピードでの効率化、大型化を成し遂げた。しかしそれは経験と実績を積んで着実に進めた技術ではなく、また社会との交流の中で実証された技術ではなかったために、無限の危うさを秘めていた。それがシビアアクシデントという形で顕在化することとなる。(p.29)

では、「スケールメリットとコンパクト化」がどのように安全上の問題に結びついたのか。コンパクト化による出力密度向上により得られた経済的メリットこそ、「安全性をぎりぎりまで削って獲得した」メリットだったと主張される:

安全上特に問題なのは出力密度の急激な増加である。福島原発事故からもわかるように、軽水炉の最大の技術的弱点は熱の除去である。冷却材の喪失が起こり、冷却機能が失われると、極めて短時間に炉心溶融に至る。出力密度を上げるためには大量の燃料をできるだけコンパクトに詰め込み、強制的に水を循環させて熱を除去する。万一事故が起きた場合、出力密度が大きいほど溶融の可能性は大きく、また溶融にいたる時間も短い。その意味で出力密度向上による経済的メリットは、まさに安全性をぎりぎりまで削って獲得したメリットなのである。

冷却に失敗すると直ちにそれがメルトダウンにつながるような軽水炉のシビアアクシデントの特徴は、まさにこの時代に確立した過渡のコンパクト化という「技術進化」に基づくものである。・・・

当然のことながら、「軽水炉」の安全を確保するためには、各種の冷却装置を具備させる必要が生じる。結果、ある種「いびつ」な形をとることになる。

・・・・原発のより詳しい図面を見ると配管が網の目のように多数張り巡らされている。これは緊急の際の炉心冷却システムなど、ほとんど炉心を冷やすための安全装置である。これを見ると原発設計者にとってもいかに冷却問題が重大な関心事か理解できる。今回の福島事故に関する政府事故調査委員会の委員長となった畑村洋太郎氏は彼の著作の中で「原発は本質安全が実現できず、制御安全の怪物になってしまいました」と述べている(畑村洋太郎著『危険学』ナツメ社、2011年)。原発を見学した人はよく「配管のお化け」などというが、安全性の上からも畑村氏の言うように冷却水注入の配管を身にまとったお化けなのである。(pp.35-36)

火力と原子力との違い: 我々が原子力による発電について説明しようとすると、当然のことながら火力と原子力の違いからスタートすることになる。火力発電所では、ボイラーで蒸気を発生させてそれでタービンを回して発電するのであるが、原子炉ではボイラーのかわりに原子炉で発熱し蒸気を発生させる、あとは、その蒸気で(火力発電所のボイラと同じように)発電をすることになる。という具合である。

わが国が米国から軽水炉を導入するにあたって、そうしたプリミティブな理解からスタートしたことこそが「安全上の虚像を生む」ことになったと主張される:

原子力発電所においてタービンを回す蒸気を供給する点で、原子炉は火力発電所のボイラーの役割をしている。原子炉はボイラーの代わり、つまり原子炉はボイラーと似たようなものという発想が、原発について安全上の虚像を生むことになる。歴史的に見ても、原発導入初期にあたり、原発を建設した日本のメーカーの人間も「米国のメーカーは火力発電所技術では、我々の及ばない大先輩だったので信頼しすぎた。反省しています」という趣旨の発言を行っている(季刊「資源とエネルギー」1977年夏号、座談会での綿森力日立製作所専務取締役の発言)。

では、原子炉とボイラーの違いはどのようなものか、以下のようにまとめられる:

  1. 原子炉では核分裂反応から熱を取り出すために、放射能、放射線にかかわる様々な問題がついて回る。
  2. 原子炉では、制御棒を挿入して核分裂反応が止まっても、炉内で発生し続ける放射線のエネルギーが熱に転化するため、熱の発生は止まらない。「崩壊熱」が存在する。
  3. 原子炉とボイラーの違いは単位体積(1l)あたりの熱の発生率である。

    ボイラーの場合、単位体積あたりの熱の発生率を燃焼室発生率または燃焼室熱負荷というが、最大で1.5kW/l程度であるが(たとえば越智敏明・他著『熱機関工学』コロナ社、2006年)、今日の原子炉の場合の出力密度(炉心1l当たりの熱の発生率)は図2-2に示したように100kW/l(PWR)から50kW/l(BWR)と60~30倍高い。これだけ高密度で熱の発生が続いているということは、少しでも冷却に失敗したり、対応を誤ると、文字どおり「アッ」という間に炉心が溶けてしまうことを意味している。余裕がないのである。(pp.36-39)

軽水炉を使い続けるかぎり、シビアアクシデントから逃れることができないと主張されているようだ。すなわち、軽水炉を使用するなかで問題が把握されるたびに「屋上屋を重ねる」という調子で新たな安全装置を付け加えるだけということになってしまう。

より安全な原子炉は存在するのか?:  上述したように本書では、シビアアクシデントは軽水炉のもつ本質的欠陥が顕在化したものだ主張される。では、軽水炉以外に、より安全な設計概念をもつより原子炉は存在するのか? あるいはそうした安全な原子炉を我々が手にすることは可能であろうか?

本書では、より安全な原子炉概念の例として、以下の二つが紹介される:

  • 冷却材としてヘリウムガスなどを用いる高温ガス炉
  • トリウム溶融塩炉

このふたつの原子炉概念が実効的かどうかは私には即断することはできない。しかし、こうした他の原子炉概念について「自由に」検討することがゆるされる開発体制を持つべきであったことは、理解できる。

原子力技術そしてその開発のありかたについて興味深い一節がある。

筆者が原研に勤務していた60、70年代の当時の知識で、今回の事故を含め、技術的問題の多くは理解可能であった。たとえばIT技術で言えば、10年前の知識では現在の技術の理解は困難であろう。その意味で原子力技術はもっとも進歩のなかった分野であったといって差し支えないであろう。(p.95)

まさに、軽水炉としての「原子力技術」が70年代までの古式蒼然とした古臭い技術であると指摘され、それに比して、IT 技術は進歩が著しい新しい技術とされているわけだ。こうした古臭い技術のままで、「本質的に危険な軽水炉」を安全なものとする技術革新が行なわれなかったと主張される。

ただ、この主張、原子力技術のような小回りのきかない技術をIT技術と比較するのはどうかとは思う。この10年でのIT技術の進歩がいかほどであったか、そして本書の著者が、IT技術の進歩としてどのあたりを指しているか、よく分からない。むしろ、原子力技術とIT技術の違いを議論する際には、IT技術におけるオープンソースの役割が言及されればとは思ったのだが・・・。

古典的な科学・技術論: 本書の著者、館野淳の依って立つ科学・技術論は、表現は悪いかもしれないがまさに「古典的な」それだ。福島第一原発事故のあと、沸き起こった脱原子力、反原子力の主張は、「反原子力」というより、むしろ「反科学」という側面が色濃いのではないか、また軍事技術としての原子力技術と平和利用のそれとの区別は否定されているものが主流になっているように思う。

このあたり、本書の第五章の「使用済み燃料、廃棄物の処分問題と原子力の将来」のなかに、著者の主張がまとめられているように思う部分がある。かなり長くなってしまうが、以下、引用しておく:

原子力技術をどう考えるか
・・・・
原発の場合、最大の安全問題は「シビアアクシデント」である。このことを説明するために書いたのが本書である。

本書において筆者は、原子力技術そのものを敵視する立場は取っていない。その理由はいくつかある。

第一は、現実対応の問題である。右に述べた高レベル廃棄物や使用済み燃料や、あるいは福島の現場の溶融した炉心などは原子力技術なしには扱えない。今後さらに技術開発が必要である。原子力技術敵視論は原子力分野の優秀な技術者をほかの分野に追いやるだろう。これでは高レベル廃棄物の処分はおろか、事故の収束さえおぼつかない。

第二は、科学や技術をどう見るかという認識の問題である。技術というものは用い方によって、毒にも薬にもなりうるというのが、技術の歴史が教えてくれる事実である。鉄の利用は鋤(すき)や鍬(くわ)という形で生産力を向上させたが、同時に青銅器に勝る鋭利な剣として多く人を殺した。ノーベルのダイナマイトを含む火薬類も、ライト兄弟の飛行機も兵器として使われた。生産力や効率が向上するほど、誤用や悪用された時その害も大きくなる。将来、遺伝子組み換え技術が発達すれば効率の良い生物兵器も作られるかもしれない。技術の誤用や悪用こそが災害をもたらす。これは良い技術、これは悪い技術と色分けするのはあまり意味がないし、また誤用や悪用、開発の間違った方向を決めた人間をある意味では免責することにもなりかねない。また誤用や悪用をされないという限定条件の下でだが、技術の可能性を否定すべきではない。将来のエネルギー選択肢としての原子力の技術開発は残しておくべきであろう。

第三は、今後原発の利用をめぐって激しくなると思われる論争において、原子力技術そのものの評価が中心テーマとなるような、ある意味では無限定な論争が繰り広げられるならば、それは世界観や好悪によって様々な立場がありうるし、「空中戦」になって、広範なコンセンサスの形成は困難となるだろう。技術の安全性の問題は、ある自動車が欠陥車だであるかどうかを決めるときのように、ブレーキのどこが機能しない、というような、限定された具体的事実で、決められるべきである。欠陥自動車が道路を走ってはいけないように、欠陥原子炉である軽水炉がエネルギー発生装置としてまかり通ってはいけない。この点で国民的合意形成が図られるべきであると考える。

いったん合意が形成されれば、廃炉の過程はそう困難ではない。燃料を抜いて放置すればよいだけである。よく「廃炉にしても危険は残るのではないか」という質問を受けるが、停止して燃料を抜いた炉は、稼働している炉よりもはるかに安定である。もちろん使用済み燃料や低レベル廃棄物があり、配管なども一部放射化しているので、最低限の放射能・放射線管理は必要であるが、それ以外には特に問題はないと思う。使用済み燃料については上に述べたとおりである。そして原子炉本体は、放射化された鉄などの放射能が減衰したのち、数十年後に解体することになる。

最後に一言、日本は自然豊かな国である。私は、原則論の立場で原子力利用に反対するわけではないが、もし解体した後に、このような自然が広範囲にわたって放射能に汚染しているような事態が生じていれば、それはきわめて大きな損失である。原子力の技術はそのようなことが絶対に起こらないと、否定しきれるほど十分には発達していない。一番心配するのはその点である。(p.181-184)

原子力の開発開始当時から変わることのない著者の立場を知ることができる。
巨大技術、原子力の抱える問題を「軽水炉体制」としてのみ捉えるということで、原子力をとりまく問題を解決することができるのだろうか?私自身、もっと考えてみたい。


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