菅 直人著「東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと」を読んでみた
April 10, 2013 – 11:13 am東日本大震災そして福島原発事故の発生から2年が経過した。この2年間、原発事故さらには原子力の将来について、様々、議論された。原発事故にかかわる調査委員会も複数立ち上げられ、調査報告書も公にされた。こうした調査委員会の報告においては、事故当時の菅直人総理大臣の挙動に対し、総じて、批判的な論調が見受けられる。最高の指揮官が前線、事故現場に乗り込み現場の事故対応活動に支障をきたしたといわれている。
本書では、事故発生時の総理大臣・菅直人自らが、原発事故の発生に直面し、それに総理として対応した際、どのように考え、意思決定をしたかが回想されている。私が本書を読もうとしたのは、総理大臣・菅直人が、何故、一見不可解とも思われる対応・行動にでたのか、菅直人自身の側にたって考えてみたいと思ったことにある。
本書を読み終えての感想を一言で述べさせてもらうと、菅直人のとった行動は、総理大臣として、むしろ当然のものだったのではないか。総理大臣としての菅直人は、さまざまな間違いを冒したのは事実かもしれない。しかし、総体ととして正しい対応をしたといってもいいのではないか、と考えた。
初動での苛立ち:「イラ菅」とも呼ばれる菅直人は、原発事故対策の初動にかなり苛立っていたという。
私は原発事故対策の初動がスムーズでないことに苛立っていた。
原子力事故対応の中心となるべき行政組織は原子力安全・保安院である。その保安院が初動において、現状の説明や今後の見通しについて何も言ってこないからだった。
私はこれまで厚生(現・厚生労働)大臣や財務大臣を経験したが、各省の官僚は関係する分野の専門家であった。そして、大臣が指示する前から彼らは方針を検討し、それを大臣に提案するのが通常の姿であった。しかし今回の原発事故では、最初に事故に関する説明に来た原子力安全・保安院の院長は原子力の専門家ではなく、十分な説明ができなかった。その後も、先を見通しての提案は何も上がってこなかった。
私はやむなく、事故発生後の早い段階から、総理補佐官や総理秘書官を中心に、官邸に情報収集のための体制を作り始めた。(p.17)
最高の指揮官たる総理大臣に対し、意思決定するに足る情報がなんら届けられなかったというのだ。彼の大臣としての経験からみて、官僚組織のサポートが全く異なることに驚きをもったというのはうなずける。
この驚きが、彼をして、自ら、官邸に情報収集のための体制を作ろうと決意させる。
東京電力などの専門家への不信: 今回の事故発生の主な原因は、津波による電源設備が使えなくなったことにあるといわれている。事故発生時、この電源設備を復旧させるため、さまざまな動きがあった。このあたりを菅直人は次のように回想している:
今回のようなシビアアクシデントでは、事故発生当初から事業者である東電単独では対応できない問題が頻発した。東電の武黒一郎フェローに対し、現状の報告を求めるとともに、こちらでできることはないかと質問すると、「とにかく電源車が欲しい」とのことだった。
この時点での東電の説明は、「電源車が早急に到着できれば、非常用冷却装置を相当時間稼働できるので、その間に本来の電源を回復させることができる」であった。(pp.64.65)
菅直人ら政府内で対応するものは、二一時過ぎ 現地に電源車が到着した際に、「これで事故の拡大が抑えられる、危機は逃れられると、そこにいた全員が思った」という。
ところが、だ。
しかし、歓びは束の間だった。
その後わかったことだが、届いた電源車のプラグのスペックが合わず電源がつながらない、ケーブルの長さが足りない、電源盤が使用できなかった、などにより、必死で手配した電源車が役に立たなかった。私たちは、東電が電気のプロ集団でありながら、電源車との接続が可能かどうかも事前にわからないことに愕然とした。(p.67)
事故後、我が国の原子力発電所には、今回のような事態の発生にそなえて、発電所近辺の高台に電源車が配置されている。私の自宅の近かくにも原子力発電所があるが、ここにも電源車とおぼしきものが配置準備されている。電源車を準備するのは それはそれでよい。しかし、だ。事故の発生した福島第一原発では、ここにも書かれているように、電源だけでなく電源盤も水没しており、電源車を運び込んでも効果的なかたちで電源を復帰させることは不可能だったはずだ。
最近も、福島第一において数日間にわたる停電騒ぎがあったのは記憶に新しい。なんのことはない、電源盤に「ネズミ」がはいりこみショートさせたことが原因だったという。システム全体に通電するには電源盤が正常な状態にあるのが必須であることは、この事象をみるだけであきらかだ。
その電源盤が、事故発生時には、使えない状態になっていた。東電の幹部の責任者のひとり武黒一郎フェローなる人物が、菅直人の質問に、「とにかく電源車が欲しい」と発言したのを読むとき、東電、すくなくとも幹部連中の混乱は相当なものであったのではと推察した。あの状態で、電源盤が使えない状態になっていたのは、現場の配置を知る立場にあれば、当然理解できたはずだ。
こうした一連の動きのなかで、菅直人でなくても、少し技術的なことが理解ができるものであれば、東京電力の技術的な力量に対し、疑問を抱くというのは当然だと思うのである。
現地への乗り込み: 総理自身が現地に乗り込んだことは、事故調の報告で相当ネガティブに評価されている。この現地乗り込みだけを見ると、確かに、総理大臣菅直人の行動は尋常ではない。批難されてもしょうがない。
しかし、だ。上記したような東電幹部の情けない対応を知るにつけ、菅直人が東電に対して不信を抱いた経緯を知るにつけ、むしろ、現地への乗り込みはやむを得ないことでなかったのではないか、と思うのである。
現地への乗り込みについて、本書では、次のように記述されている:
災害時に総理大臣がどの段階で現地へ行くかについては常に議論がある。何日も経ってから行けば、「今頃、何しに来た」と批判されるし、すぐに行っても、「現場が混乱している時に総理が行くとさらに混乱する」と批判される。一般論としても、危機の際は指揮官が陣頭指揮を執るべきか、どっしり座って部下に任せるべきかは意見が分かれるだろう。(p.71)
菅直人自身、彼自身が現地に乗り込むことが尋常でないことは重々承知していた。それをおしきって現地に乗り込んだのだ。
私は官邸の屋上から自衛隊のヘリ、スーパーピューマで出発した。
・・・
福島第一原発に着いたのは、七時一二分だった。一時間ほどかかったことになる。
ヘリはグランドのようなところへ降り、私たちは用意されていたバスに乗り込んだ。東電の武藤栄副社長と、政府の現地対策本部長である池田経産副大臣もバスに乗ってきた。・・・。
武藤副社長が隣に座ったので、なぜベントができないのかと質問すると、口ごもるだけなので、私はつい声を荒立ててしまった。
・・・・
(免震重要棟の)案内された部屋には大きなモニターとテーブルがあり、そのテーブルには第一原発の地図があった。すぐに吉田所長が入ってきた。
吉田所長は、私がこれまで官邸で接してきた東電の社員とまったく違うタイプの人間だった。自分の言葉で状況を説明した。
「電動でのベントはあと四時間ほどかかる、そこで手動でやるかどうかを一時間後までには決定したい」という説明であった。
当初の話では、ベントは午前三時のはずだった。その予定時刻からすでに四時間が過ぎている。それをさらに四時間も待てという。そもそも、ベントをしなければならないと言ってきたのも東電のはずだ。
「そんなに待てない、早くやってくれないか」
というと吉田所長は「決死隊を作ってやります」といった。副社長は口ごもるだけではっきりしないが、この所長は違った。
批判されるという政治的リスク、被曝という健康リスクなどもあったが、私がこの時点で視察に踏み切ったことでの最大の収穫は、現場を仕切っている吉田所長がどのような人物なのか見極めることができた点だ。(pp.73-76)
このなかで、菅直人は東電の技術陣のなかで信じられるのは、現地の技術者のみであり、その幹部は技術的には全く無能であるとの認識を持ったに違いない。
そして、3月15日、東電の撤退の動きを察知するなかで、東電本社に乗り込み、ここに東電と政府の統合対策本部を設置する。政府が現場から直接情報を得、意思決定できる体制を作ったといえる。このながれ、菅直人の回想を読んで、当然のながれと考えた。
最悪のシナリオ: 菅直人は、事故の発生そしてそれに対応する日々をすごすなかで、脱原発の立場に急速に舵をきる。これは、原子力発電所の事故というものが取り返しのつかない国家的な存亡にもつながるものであるという事実を理解したことによる。
これは、近藤駿介原子力安全委員会委員長が菅直人の求めに応じてまとめた「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」のなかにみた「悪夢」ともいえるシナリオが技術的には現実的に可能であることを理解したことによると思われる。
平成23年3月25日に近藤駿介からとどけられた検討結果は、本書では、次のように記載されている:
原子力委員会の委員長、近藤駿介氏に、事故が拡大した場合の科学的検討として、最悪の事態が重なった場合に、どの程度の範囲が避難区域になるかを計算して欲しいと依頼した。
これが「官邸が作っていた『最悪のシナリオ』」とマスコミが呼んでいるもので、三月二十五日に近藤氏から届いた「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」という文書のことだ。
これは最悪の仮説を置いての極めて技術的な予測であり、「水素爆発で一号機の原子炉格納容器が壊れ、放射線量が上昇して作業員全員が撤退したとの想定で、注水による冷却ができなくなった二号機、三号機の原子炉や、一号機から四号機の使用済み核燃料プールから放射性物質が放出されると、強制移転区域は半径一七〇キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径二五〇キロに及ぶ可能性がある」と書かれていた。
・・・背筋が凍りつく思いであった。それにしても、半径二五〇キロとなると、青森県を除く東北地方のほぼすべてと、新潟県のほぼすべて、長野県の一部、そして首都圏を含む関東の大部分となり、約五千万人が居住している。つまり、五千万人の避難が必要ということになる。近藤氏の「最悪のシナリオ」では放射線の年間線量が人間が暮らせるようになるまでの避難期間は、自然減衰にのみ任せた場合で、数十年を要するとも予測された。(pp.20-22)
こうしたシナリオを考えるなかで、菅直人が脱原発に舵をきったのは当然の流れだったといえよう。
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