飯田哲也著「エネルギー進化論」を読んでみた

February 18, 2012 – 2:06 pm

本書の「あとがき」の終わりのほうに「本書は、5月初旬に2週にわって行った講演録をもとに、新書に再構成したものです」とされ、「2011年11月11日 横浜の自宅にて」となっている。
3.11の大地震、そして福島第一の大事故の発生は、我々に、原子力に代わる自然エネルギーの可能性について考えさせた。そして、自然エネルギー推進のチャンピオンである本書の著者の見解に耳を傾けさせた。本書は、著者が3.11以降述べてきた自然エネルギーを普及の(政策的な)道筋をまとめたものとして興味深い著作、と思い読んでみた。

本書を読んだ印象: 近所の公営の図書館の新刊書コーナーで本書を見つけた。3.11以降、飯田氏の著作を数冊読んでいたこともあり、かなりの期待をもちながら、早速読んで見た。

 正直な印象を述べさせていただくならば、「切れの悪さ」を感じてしまった、というところか。著者の「個人的なメモ」が未整理なかたちで一冊の新書としてまとめられているような印象をうけてしまったのだ。

 冒頭で、本書の「あとがき」の記述を紹介したのであるが、3.11以降に行われた講演を「再構成」したということが反映されているのかもしれない。飯田哲也氏も「売れっ子」になってしまった、なんて思ってしまったりした。

印象に残った部分をメモしておいた: 本書全体の印象は別にして、なるほど、そういうことなのか、というように感じた部分もあった。それらをメモしておいた。

まず、20世紀初頭に、米国の石油企業、自動車企業などの巨大資本が経済、政治の輪郭をどのように作ってきたかについて記述されている下り。以下、転載。

歴史的シフトの時代
 今からおよそ百年前の1908年に、アメリカのフォードという自動車メーカーによって、T型フォードの1号機が世に送りだされました。・・・・・
 フォードが自動車の大量生産を開始したのと同じ時代に、アメリカではスタンダード・オイルという巨大な石油会社が、レールを使った公共交通機関(たとえば路面電車など)の買収をすすめていました。当時のアメリカでは、市民の足として市街電車が幅広く利用されていたのですが、スタンダード・オイルらはこれらお公共交通機関を買収したあと、設備を解体したのです。その真意は、自動車を利用する以外に選択の余地がない社会をつくりだし、みずからのマーケットを拡大していくことにあったといわれています。こうして石油企業や自動車企業などの巨大資本は、互いの手をとりあって自社の利益を増殖させるようなかたちで、石油消費を前提とした20世紀の経済と政治の輪郭を作ってきたのです。(p,26)

なるほど20世紀初頭からの米国の巨大資本は凄いと再確認させてもらった。この話し、以前、どこかで聞いたことはあったが、経済・政治の力というか、大資本のすごみを感じた次第だ。

この話題のなかに、私は、著者の持つ「思い」「野望」を感じてしまう。自然エネルギーが普及する社会を作るという著者の願いを実現するためには、20世紀初頭に石油産業、自動車産業が行なった政治・経済の枠組みづくりに対応する新たな力が必要と主張されているのでは、と思う。

著者の自然エネルギー促進の戦略は?: 著者は、自然エネルギーを促進するために必要な政策について、本書を通じてのべているのであるが、私にとって分かりやすかったのは、経産省が主導している「自然エネルギーの促進」の問題点について述べている部分だ。以下、転載。

一般に、経産省主導で進められる「自然エネルギーの促進」には、4つの問題点があります。
第1に、本格的な普及を目指していると思えない。意図的な抑制が見えること。系統の費用を異常に高めに積算する一方、再生可能エネルギーのコスト低下をほとんど織り込まない設計になっているため、高コスト、高負担になってしまうこと。
第2に、制度・政策的な問題を、別の政策・仕組みで解決するのではなく、ナイーブ(素朴)な「技術主義」走る傾向があることです。たとえば送電系統の活用は、第2章でも触れているように、再生可能エネルギーが普及するための鍵を握っています。自然エネルギーからの電力を優先して系統につなぐ“優先接続”“変動吸収”などの仕組みづくりが重要なのですが、「蓄電池」のような高コストでまだ現実的ではない設備、あるいは「スマートグリッド」のような開発段階の技術が“前提”になっていたりします。仕組みよりも技術で解決できる(解決する)という経産省的な時代遅れの発想が背後にあるのです。
第3は、「偏った市場主義」です。民主党がマニフェストで提案した「全量買取制度」に対して、3.11前に経産省が提示した「ドラフト」の段階では、異なる種類の再生可能エネルギーを一律の価格で買う、という致命的な欠陥がありました。「一律価格」というのは、さまざまな国で失敗が報告されている方式ですが、経産省は意図的なのかしらないだけなのか、一律価格での買取としていました。また、全量買取制度を表向きには装いながら、拡大にあたっての要の存在となる家庭用太陽光発電については、余剰買取制度を継続する、としている点です。民主党は、みずからのマニフェストとは明らかに乖離したこの点についても、介入はしていません。
しかしながら希望はあります。新しい「再生可能エネルギー買取法」(電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法)が成立したからです。価格などの細かい条件が決まるのはこれからで、条件が中途半端なものになったら、おそらく自然エネルギーが普及するのかそうでないのかは、今まさにソフトバンクの孫正義氏がキャンペーンしている「自然エネルギー全量買取を40円/kwhで20年間義務づける」のような、具体的で実現可能な条件を設定できるかどうかにかかっています。(pp.149-151)

「4つの問題点」が指摘、議論されるはずのところであるが、本文では、3つの問題点しか記述されていないのは、どうしたんだろうなんて思ってしまう。が、それはそれとして、このくだり、著者の考えが、現行の経産省の政策との違いとして率直に述べられている。

特に、「仕組みよりも技術で解決できる(解決する)という経産省的な時代遅れの発想」という経産省に対する批判は、私が日ごろ考えていることに対する批判にもなっている。仕組みをいじるだけで、世の中がよくなるのか?なんて疑問すら生じる。私自身、「技術主義」を標榜する旧い体質を持つものなのだろうか?もう少し、考えてみたい。

最後に現われる孫正義の話。20世紀初頭の自動車、石油産業に変わるものは、孫正義を先頭にするIT産業と、飯田氏は考えているのか、なんて思ってしまう。

まとまりのない話しになってしまった。
ま、ひとまず「本書を読み終えた」という記録。


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