飯田哲也×鎌仲ひとみ共著「今こそ、エネルギーシフト」を読んでみた
January 8, 2012 – 3:15 pm「今こそ、エネルギーシフト」と題する岩波ブックレットを読んでみた。このブックレット、『世界』2011年5月号掲載の対談「自然エネルギーの社会へ再帰しように大幅加筆をした」ものという。
飯田哲也の書籍については、「『原発社会からの離脱』を読んでみた」ことがある。本書「今こそ、エネルギーシフト」も、これと同じように、我が国のエネルギー源を原子力から再生可能なものに転換することを主張している。
このなかに、「『安全な稼働』はどこまで可能か」とサブタイトルした部分がある。これに書かれていること、大切な論点と感じた。
メモしておいた。
以下、抜粋:
「安全な稼働」はどこまで可能か
飯田 安全にやれば原発はまだ使えるのではないか、と思っている人は、基本的に次の三つのことを理解していないのではないでしょうか。
一つめは、先ほど鎌仲さんがおっしゃった経済的観点です。東京電力は原子炉一基あたり一二〇〇億円の保険にはいっていますが、これは自動車でいうところの自賠責保険です。アメリカでは事業者の負うべき損害賠償限度はおよそ八〇〇〇億円となっていますが、今回のような最悪規模の原発事故にあっては、基本的に原子力事業者には無限の賠償責任があると思います。しかし問題は、無限責任にした場合に、それを引き受けるような二次保険会社があるかどうか、ということです。実際、そんな保険会社があるとはとても思えない。つまり、今回の原発震災のような最悪の事故も含めて無限責任の損害賠償保険のコストを考えると、そもそも経済的に成立しないということです。
二つめに、日本の原子力発電所がこれから急激に減っていくという事実です。日本では、運転開始から四〇年経過した原子炉は、安全面を鑑みて順次停止されていくことになっています。それを踏まえると、日本の原発は、これから年を追って、稼働する原子炉が老朽化によって減っていきます。さらに、今回の大震災によって直接的なダメージを受けた原子炉は、当然のことながら廃炉にしなければならないでしょう。さらに、将来的にダメージを受ける可能性が極めて高い浜岡原発などは、運転の停止が必要です。
そうなると、日本の原発は一気に減っていく可能性がある。その事実を前提にしたうえで、日本のエネルギー政策は考えなければならないのです。なんとなくこれからも、総発電量の三割が原子力だ、とう状態がつづいていくのではないかと漠然と考えるのは、先の見通しができていないことに他なりません。
三つめに、日本のエネルギーの未来には、原子力以外に、極めて有力な選択肢があるということが知られていません。あたかも原子力以外には選択肢がないかのように、思わされてしまっている。そう考えるように、電力会社や御用学者が御用メディアを通じて誤った情報をまき散らしているのです。(pp.31-32)
なるほど、と思わせる。
経済的には成立しない原子力: 抜粋した文書の第一の論点、原子力発電は「経済的には成立しない」というのは非常に重要な論点だ。今回の福島第一の事故で明らかになったことのひとつは、ひとたび原子力発電所で大きな事故が発生すると、誰もそれを賠償することができない規模になりうるということである。
原子力発電プラントは、開発された当初から、大きな原子力事故が発生すると無限責任の損害賠償保険を適用するのは不可能といわれてきた。この意味するところは、大量の放射能を環境に放出させるような事故の可能性が多少でも存在する場合には、この原子力発電という技術を採用してはならないということだ。誰も賠償できないような事故を発生させるような可能性がある技術に依拠するような社会は存在できない。
原子力発電所の老朽化問題: 「日本では、運転開始から四〇年経過した原子炉は、安全面を鑑みて順次停止」ということになっている。停止した発電プラントに代わるエネルギー源を何に求めるのかを考えなくてはならない。「より安全な原子炉」を新規に建設するのか、それとも脱原子力の道を歩むのか? 早晩、結論を出さねばならない。
原子力発電プラントの設計・開発・建設のサイクルは非常に長期にわたる。老朽化した原子炉に代わる新規の「より安全な」原子炉を建設しようとする場合、最先端の科学技術の成果を取り込むことが望まれるのであるが、原子力発電プラントのように設計・開発・建設サイクルが数十年の長期にわたるものには、今後10年、20年のレンジで期待される科学技術の進歩を取り込むことは困難と考える。原子力が、科学技術の最先端にあるように喧伝されることがあるが、その実相は、比較的ふるい技術を用いざるを得ないのだ。
ぼんやりとではあるが、新しいエネルギー源としては、新しい科学技術の成果を柔軟に取り込むことが可能な分散型システムといったものを指向するのが得策のように思う。