人間の器とは・・・ - 菅は総理の器じゃない?-

November 30, 2020 – 11:43 am

今朝、TBSラジオ森本毅郎スタンバイを聴いていたら、菅は総理の「器」じゃないという話がでていた。

私自身も、総理の器にあらずという印象を持っている。与党のなかからも、そういう話がでているという。皆が感じていることなのだろう。

総理に就任して以来2か月間の菅首相の振る舞いを思い起してみると、納得してしまうことが多い。

言い過ぎかもしれないが、菅内閣、短命で終わるような気がしてきた。早めに白旗を上げるのがよろしい。傷は浅いほうが、我が国のためだ。

「器」とは何か
自分自身のことを考えると、自分が器の小さい人間ということは否定できない。自分が与えらえた仕事をやり遂げるうえで、単に業務上の知識があるとか、能力があるとかではなく、それを超える「器」といえるようなものがなかったと反省することが多い。

noteというサイトには、次のように解説されている。

「器の大きな人」とは才能、技能、知識などを豊富に持つ人であり、そこから「どんなものでも入れられる深さがあり、それを活用する能力のある人」のことのことを言うようになったと思われます。また、「器量」や「度量」と同じように使われることもあり、単に才能に恵まれ、豊富な知識がある人だけでなく、大きな視野を持って、思いやりと大きな包容力のある人のことを言います。

なるほど、と思う。

私なりの理解でいうなら、知識というより、全体を俯瞰し判断できる知識、能力を指すような「メタ知識」というものを指すような気がする。

菅に首相としての器がある?: 
総理就任直後に話題になったのが、「学術会議任命拒否問題」。こうした大問題を総理就任時点に取り上げることは得策ではない。取り上げること自体はいいかもしれないが、それなりの覚悟を持って取り上げるべき問題ではないか、と思う。

政策上、何を重点とすべきか、ということを考えることなく、事務官僚の作った原稿を読むだけで押しとおそうとする姿は、ある種の哀れさを感じてしまった。

この問題、静岡県知事が、菅総理のことを「無教養」と言い放ったことは記憶に新しい。この程度の批判・非難が起きることは、問題の性格からいって、当然のことと思われる。こうした判断ができなかったこと、やはり菅首相の視野の狭さ、傲慢さに起因するものと思ってしまう。小さな「器」の典型だ。

最近のコロナ対策についても、視野の狭さ、そして傲慢さだけが目立っている。

首相の肝いり政策という「GOTO」キャンペーンを巡る政府の迷走には目を覆いたくなる。「GOTO」を推進するという方針を堅持しながら、感染者急増の話に対応しようとするから、きちんとした説明もできない。

口を開いても、言い古された「マスク着用」「三密回避」などなどのスローガンが述べられるだけ、きちんとした方針も打ち出せない。

発信力なし、実務能力なし、そして記者からの質問にも真っ当に答えられない無能さ、あるいは答える気のない傲慢さだけがめだつ。

ま、どうでもいい話を書いた。なんのことはない、菅総理には政権を担うだけの器量がないということをいいたいだけ。

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