有名ブログサイトで見かけた「科学論?」

June 21, 2009 – 1:59 pm

毎日、チェックするふたつのブログサイトがある。ひとつは「内田樹の研究室」、もうひとつは「認知的体験」だ。前者は、わが国の3大ブログのひとつといわれているらしい。とにかく一日のアクセス数が1万を超えるというからすごい。もうひとつの「認知的体験」は、認知心理学の指導的な立場で活躍された先生のブログ、こちらは500アクセス程度であるが、とても面白い。随分前のことになるが、「内田樹の研究室」のなかで「科学」について語られ、それについて「認知的体験」で触れられたことがある。かなり興味深い議論だった。いまさら、という感じはあるが、忘れないようにということで、メモしておいた。

「内田樹の研究室」で語られた「科学?」: 昨年の11月3日付けのエントリーに「人を見る目」というタイトルの一文がある。ここで行われている議論、私なりにまとめてしまうと、「人間の見識というか将来を見通す能力は、『客観的根拠』に基づくものとして提示できるものではなく『超能力』とか『霊能力』と呼ばれるものだ。日本人はこの能力『霊的感受性』が劣化してしまった。それを取り戻す『涵養プログラム』くらいは学校教育に取り入れたい」ということになる。

この議論を進めるなかで、「(自然)科学」について次のように述べる(以下、抜粋):

・・・私たちの社会では、・・・あらゆる場合に、私たちは判断の当否について客観的根拠(言い換えれば「数値」)を要求される。数値をもって示すことのできない「知」は知として認知されない。Evidence basedという考え方それ自体はむろん悪いことではない。けれども、evidenceで基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。
というのは、私たちが「客観的根拠」として提示しうるのは、私たちの「手持ちの度量衡」で考量しうるものだけであり、私たちの「手持ちの度量衡」は科学と技術のそのつどの「限界」によって規定されているからである。
・・・ 
そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。
「存在する」と想定した方がつじつまがあうものについては、それを仮説的に想定して、いずれ「話のつじつまが次に合わなくなるまで」使い続ける、というのが自然科学のルールである。
そうやって分子も、原子も、電子も、素粒子も、「発見」されてきた。

そして、

私は「そういう能力が存在する」ということを前提にしないと「話のつじつまが合わない」事例があまりに多い場合には、自然科学の骨法に倣って、仮説として「存在する」ということにして話を進めているのである。
・・・・
あらゆる科学的命題はそのつどの科学技術の(おもに計測技術の)限界によって規定された暫定的な仮説であり、(しばしば計測技術の進歩によって)有効な反証がしめされれば自動的に「歴史のゴミ箱」に棄てられる。
「超能力」とか「霊能力」と呼ばれる能力は現に存在する。

と述べられる。なんとも、巧妙な議論である。

確かに、自然科学において、内田樹のいうように、「『何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの』が存在すると想定しないと、『話のつじつまが合わない』場合には、『そういうものがある』と推論する。」という場面があり、それが重要な役割を負う。

しかし、正しい「科学的ルール」においては、「話のつじつまが合わない」ものがある場合に「そういうもの」、言い換えると新たな「実体」、を仮定・導入しようとすることが、単に、便宜的に仮定・導入しようといったものであってはならない。仮定・導入しようとする「実体」が合理的なものであるかどうかが十分吟味されねばならないし、さらには、その実体の存在を証明するための「新たな度量衡」を得るための科学的営みがこれに続かねばならない。こうした科学的営みを通じて、「分子も、原子も、電子も、素粒子も、『発見』されてきた」のである。こうした科学的な「実体」、「歴史のゴミ箱」に棄てられるほど、ヤワではない。

内田樹が「科学の骨法に倣って」導入した「超能力」とか「霊能力」というものは、その存在を証明する「新たな度量衡」を得るためにどのような営みが行われているのだろう?聞いてみたいものだ。おそらく、「度量衡」を必要としないのが『超能力』とか『霊能力』ということになってしまうだろうが・・・。

「認知的体験」で紹介された内田「科学論」: ブログサイト「認知的体験」で、この内田樹の議論の一部が「認知的体験」で「存在しないものを存在すると仮定すると」というタイトルのエントリーのなかに紹介されていた。「認知的体験」では、内田樹の記述に一言、コメントが付け加えられたものだ。うえの内田樹の抜粋部分と重複することになるが、「認知的体験」の記述を、そのまま以下に示す;

2008/11/03
内田ブログより

「存在する」と想定した方がつじつまがあうものについては、それを仮説的に想定して、いずれ「話のつじつまが次に合わなくなるまで」使い続ける、というのが自然科学のルールである。
そうやって分子も、原子も、電子も、素粒子も、「発見」されてきた。
ところが、いま私たちに取り憑いている「数値主義」という病態では「私たちの手持ちの度量衡で考量できないもの」は「存在しないもの」とみなさなければならない。
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心の研究の大前提が、これになる

「認知的体験」をお書きになっている心理学の先生のコメント、「心の研究の大前提が、これになる」というところだ。私の理解では、内田樹の議論の行き着くところ、結局は、「自然科学のルール」を引き合いにだしながらも、非合理的な神秘主義ということになってしまうのだが・・・。

ここで書かれた「心の研究の大前提が、これになる」というコメント、何を指されているのだろう?多いに気になってしまった。一度、お聞きしたいものだ。

「科学教育」のありかた: 昨今の「科学離れ」などなど、科学教育はどのようにあるべきか、相当深刻に考えねばならない。「科学的」とは、あるいは「科学のルール」とは、といったあたりを明確にしておくことが、ひとつの鍵になるのではないかと考える。そういう意味で、内田樹の「科学論」の正しさを吟味するということは大切なことだと思う。なにしろ、大変な読者を抱えて、相当の影響力を持っている。

ともあれ、内田樹の議論、そして「認知的体験」、いい素材を提供してくれた。

今後も、このふたつのブログ、一読者として読ませていただこうと思う。

それにしても、内田樹の「科学論」、かなり巧妙だ。思わず引き込まれそうになってしまう。

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