佐藤愛子の著作と教科書・入試問題

March 11, 2009 – 10:30 am

数日前に「大学の入試問題って難しいんだ!」というタイトルで記事を書いた。同じような話が佐藤愛子のエッセイにもでていた。佐藤愛子の著作が、中学・高校の教科書とか入試問題につかわれたが、この著作に付随している設問が著者自身では解けないという話だ。文学作品というものはどのように味わうべきものなのか、結構、面白い話と思ってメモしておいた。

佐藤愛子のエッセイ: 教科書とか入試問題の話がでていたのは、文春新書(2007年5月発刊)の「今は昔のこんなこと」というエッセイ集だ。関連部分、少し長くなるが、引用した;

作家の文章が中学や高校の国語の教材として引用される場合、かっては夏目漱石や森鴎外ら文豪の文章と決っていた。
 それがこの五、六年、私なんぞの文章が国語教材や入試問題に使われるようになっている。これは日本の国語教育のレベルが大下りに下ったためであろうと推察している。
 「著書転載のお願い」という手紙と一緒に引用文が送られてくるが、それには必ず生徒への質問と答(らしきもの)が一から四くらいついていて、そのうちの正解と思うものに丸をつける仕組みになっている。
 それを読むたびに私は途方に暮れる。どれが正解かといわれても、一でも二でも三でも四でも、どれでもいいように私には思えるのだ。だいたい文学に「正解」などある筈がないのである。それぞれの読者がそれぞれ感じるものが正解であってよいのだ。本を読んで感じ吸収したものは、年を加え人生経験を重ねるにつれて変化していくのが当然で、中学生の時は「三」に丸をつけていたが、五十になった時は「二」につけるかもしれない。感じるものがなければ無解答でよろしいのではないか。(p.67-68)

これは、樋口一葉の「釣瓶井戸」を佐藤愛子が自分の孫に解説・説明しようとする話のまくら部分だ。なぜ、文章の解釈に正解・不正解が必要になってくるか、孫との会話のなかで思いいたるという筋になっている(私の理解が、不正解なのかもしれない。興味をおもちになったら、この本を読んでほしい)。

文学に「正解」などある筈はない?: 文学とかにほとんど縁がない私にとって、「文学に、『正解』などある筈がない」と直木賞作家の佐藤愛子が書いていると、やはり国語教育はいろいろ問題を抱えているのだ、などと思ってしまう。著者本人が、教科書とか入試問題の設問の正解が解らないとおっしゃるのだから、「奇問、珍問」のたぐいなんだと、結論づけたくなる。

しかしだ、このエッセイをよく読むと、実は、文学作品というものは奥が深いものだ、ということが言われているような気がしてきた。やはり、佐藤愛子さん、秀でた文学者なんだ、なんて思ってしまった。

やはり、国語などの文科系の教科は難しい。「正解」がない設問というのは、みんな自分の頭で考えろということのようだ。日本語を味わえるだけの能力がないと、とても「文学に『正解』などある筈はない」と言い切れるものではない。

あらためて勉強やりなおしだな、私は。


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