宮台信司×飯田哲也 共著 「原発社会からの離脱」を読んでみた
October 26, 2011 – 10:59 pm3.11を経験した今、「原子力」とどのように関りを持って行けばいいのか? 自然エネルギーは、原子力に代わるエネルギー源と考えていいのか? 思いを巡らしているところだ。
ヒントになれば、ということで「自然エネルギー利用」のチャンピオン飯田哲也の書いたものを読んでみることにした。
私の立場: 私は、5年前に退職するまで約30年にわたって「原子力」関係の研究所で働いていた。当然のことながら、今、私の一番の関心事は、「原子力」との関係、距離をどのように保つべきか、ということだ。
私のこれまでの立場は、臆病な原子力「推進派」ともいえるものだ。原子力自体が大きな危険を孕むものであり、さまざまな問題があることは承知していた。
が、なんとかなるのでは、という「淡い期待」のなかで原子力の「推進」を了としていた。
しかし原発事故は発生した。想像を超える規模でだ。原発社会の何が問題であったのか?そして今後どのような社会を形作ってゆくべきなのか?毎日、もんもんとしながら考えている。
原発を廃止するということになると当然のことながら、今後のエネルギーをどうすべきか?原子力エネルギーに代わるものとして自然エネルギーを選択することは現実的なのか?といった問題を考えねばならない。
さらには、私が原子力の開発を了としたのは何故だったのかも考え直さねばならない。
本書「原発社会からの離脱」は、そのあたりのヒントを与えてくれるのでは、と期待した。
飯田哲也氏が考えるフクシマ後の日本: 本書「原発社会からの離脱」における飯田の主張の主要な部分は「あとがき」にまとめられているように感じる。以下、抜粋。
3.11の前と後では、日本社会には誇張ではなく、江戸から明治への大転換、太平洋戦争中から戦後への大転換と同じような変化が生じつつある。「原発は安全・安心・クリーン」という耳当たりの良いデンツー的言葉だけが流布していた「3.11前」。太平洋戦争のさなかに、誰もが戦争の大儀をうたがうことがなかったのとまったく同じように、原発の是非を問い電力会社の独占を疑う意見は、徹底的かつ巧妙に排除されてきた。
それが、かって「八月一五日」を境に一瞬にして一億総民主主義に転じたように、「3.11後」は、原発や電力会社の問題点がマスメディアでもおおっぴらに報道され議論されるようになった。エネルギーや原発問題が、一部の狭い専門家の議論から、国民共通の最もポピュラーな関心事となった。原発に代わる代替エネルギーの本命として、自然エネルギーの可能性が真正面から議論されるようになった。こうした変化は、それ以前の、まるで半透明の「分厚い膜」が覆っていた状況に比べれば、少なくとも良い方向といえよう。
ところが、この変化は、まだ本質的なものではなく、かつ容易ではない。
・・・・
一時期、思考麻痺を起こしていた原子力ムラや原子力官僚、電事連、経団連などこの国の「旧いシステム」だったが、・・・もう揺り戻しを始めている。ことほどさように、彼らは今回の原発震災で何も変わっていないのだ。
私たち自身もまた、問われている。「3.11前」も思考停止したまま、「原発は安全・安心・クリーン」と信じたのと同じように、「3.11後」は、それが原発たたき・東電たたきに転じただけではないのか。(pp. 198-199)
なるほど、と思う。飯田の言うように、「原子力ムラ」の片隅で働いていたものとして、私は、事故以来、思考麻痺を起こしている。飯田は、3.11をかっての「八月一五日」と対比させているが、終戦を迎えた「軍国少年」の8月15日は、きっと私にとっての3.11のようであったのではないかと想像している。
自然エネルギーは、原子力エネルギーの代替となりえるか?: 自然エネルギーは、これまで原子力が担ってきたような我が国の主幹的なエネルギーのひとつとなりえるのか?ということは避けて通れない設問であろう。
そのあたりについて、飯田は興味深い議論をしている。
原子力発電はいま第三世代と言われています。この第三世代は、いまから三〇年前に設計されている。その第三世代が今建設されているという技術の古さです。太陽光発電などは日進月歩で世代交代している。
新しく作った太陽光発電施設と新設の原子力発電所は、投資減税効果を織り込めば、二〇一〇年で発電コストがほぼ同じか、もう逆転したのではないかというのが、アメリカでの調査結果です。大前提として、風力も生物資源(バイオマス)も水力も、大本は太陽エネルギーです。太陽エネルギは物理量として、いま地球全体で使っている化石燃料と原子力の一万倍だと言われています。だから、ほんのわずか転換すれば、地球全体のエネルギーを自然エネルギー変えていくのは、まったく非現実的ではない。(p.44)
なるほど、と思う。
後段の太陽エネルギの物理量が今消費している化石燃料と原子力の一万倍であるという議論はおくとしても、前段部分は非常に重要なことが議論されていると思う。
原子力発電における設計・開発・建設のサイクルが非常に長期にわたるのに対し、自然エネルギ技術の発展が日進月歩であるというところだ。原子力発電の開発・建設サイクルが数十年にも及ぶという事実は、我々が原子力を選択する限りにおいて、今後10年、20年で期待される科学技術の進歩を、少なくともエネルギー源として、活用できないということではないか。
過ぎ去った20年、30年を思い起こして見ると、科学技術の進歩は我々の想像を絶するものであったのではなかったのか?自然エネルギの利用に係わる技術の進歩を期待しても良いのではないのだろうか。
エネルギの利用形態も変化するに違いない。次のような議論も興味深い。
宮台:
・・・素朴な質問ですが、自然エネルギーによる自家発電で、企業や工場が電力を賄うことは可能なのでしょうか。
飯田:
それよりもインターネットのような分散型モデルでしょうね。自家発電だけだと自分のノートパソコンだけで、ネットには繋げずに作業する、みたいになってしまう。PC88でゲームを作ることくらいしかできない。グーグルが考えているスマートグリッドはまさにインターネットのようなモデルで、発電量の変動もネットワークに繋ぐことではじめて吸収できる。自分で蓄電池をもったまま孤立していたら、コストが高くてしかたありません。自分で蓄電池をもっていてネットワークに繋がっていたら、ソーシャルに活用できる。将来的には、蓄電池機能、あるいは出力調整機能のクラウドが、間違いなくできます。
山小屋であれば独立型でいいでしょうが、都市はネットワークに繋がったほうがイノベーションの可能性がひろがります。(p.185)
そうなのだ。ここ10年間のインターネットの爆発的な進歩を考えると、自然エネルギの利用形態に革命的な変化があっても不思議ではない。
旧態然とした原子力さようなら、と思わず口走りたくなる。
日本の電力の閉鎖性: こうしたエネルギの利用形態の変化を効果的にするためには、どうしても日本の電力の閉鎖性を打破し、自由化の道を選択すべきといったあたりの課題は避けて通れない。この電力の閉鎖性と原子力の関係について、飯田は、つぎのように言う。
・・・原子力とは巨大な設備投資をして長期的にコストを回収するうえ、しかも安定的に電気を消費してもらわなければならない。自由化のような市場をつくると困る。しかも核のゴミを処分していかなければならない。だから独占市場がないと、この大切な原子力産業を育てられない。これが独占と原子力を結びつけたのだと思いますね。(p.114)
原子力の利用と独占が密接に繋がっているというのだ。
我が国では、電力の独占体制を維持するうえで原子力を利用することが言い訳になっている、ということになっているようだ。足かせになっている原子力から、今回の福島第一事故を区切りとして、離脱するというのが、最も正しい選択かもしれない。
本書、その他、興味深い議論が行われている。
もう少し、詳しく考えてみたいところだ。
ともあれ、本書を読んだ率直な感想、
旧い技術、原子力に固執する必要は、もはや、ないのではないか。
これが、私の正直な感想だ。
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