原発の安全性と日本の文化的特質(「大津波と原発」を読んでみて)
October 14, 2011 – 9:54 am3.11の大震災そして原発事故のあとを受けて、原発の安全性について様々な議論が行われている。私自身、原子力関連の組織で働いていたものとして、原発の今後についてどう考えるべきか思いをめぐらしているところである。
最近、「大津波と原発」を読んだ。ここでは、日本の文化的特質と対比しながら原発の安全性について議論されている。議論の結論は脱原発ということになるのだが、この結論に至る議論が非常に興味深いものと感じた。メモしておいた。
「大津波と原発」: 本書は、内田樹、中沢新一そして平川克美の3氏が東関東大震災から3週間たった4月5日に、Ustreamで配信される番組「ラジオデイズ」で、大震災と原発事故について語り合った内容を本としてまとめている。
議論をした3氏は、ブログ記事などを通じて、よく見かける方々だ。どちらかというと、文系の研究者のように感じている(経歴を見ると、平川氏は早稲田大学理工学部の出身ということのよう)。
ブリコラージュと原発事故への対処: 中島新一氏が、今回の原発事故に対し日本人(の思考が)対処できないとの議論をしている。その議論のなかにフランス語でいうありあわせのもので修理するという意味の「ブリコラージュ」という言葉をつかっている部分がある。以下のような議論だ。
中沢: ・・原発の問題に関しては、今までの日本人の思考方法の中にはノウハウがないと見たほうがいいと思います。東電の対応を見たり、原子力科学者たちの発言を聞いていてわかることは、ほとんど無策だというのが本音です。
消防庁の放水がはじまった後でしたか、フランスの新聞に、建屋に向かって消防車が放水をしている写真が載せられて、記事の中には、「これぞブリコラージュ!」って書いてありましたが、嬉しいんだか、なんだか(笑)
さすがフランス人だなと思いました。ようするに日本人は野生の思考であるブリコラージュによって、原発に対峙していると彼らは見たわけですね。
「おむつに使う素材の高分子ポリマーを使います」とか、「入浴剤を入れて」とか、ふつうの科学者が言ってはいけないようなことを平気で言っています。たしかにそれはブリコラージュのやり方です。お風呂に使っている薬剤をああいう場面で使うというのは、ブリコラージュ的なみごとな転用ですからね。ほかのシチュエーションだったら、面白がるところですけどね。
平川: ありものをその場しのぎで使うということですね。
中沢: ええ、ありあわせのものを使っているわけですね。しかもそのありあわせのものが、ぜんぜん次元のちがうものだったりする。入浴剤はそういうところで使うようにはつくられていません。
先ごろ亡くなった人類学者のレブィ=ストロースが「日本人はブリコラージュを駆使しながら、ものづくりをする素晴らしい民」と言ってくれていました。
しかしですね、事故を起こした原発に対してまで、ブリコラージュをやっちゃうというところがですね、はしなくも日本人とは何者なのかということを露呈させています。
ぜんぜんちがうレベルの現象に対して一所懸命に、応急処置をほどこそうとしているけれども、根源的問題にはちっとも触れていない。つまり原子力発電のそもそもの存在構造とか、それを生みだした根源の思想であるとか、そえを取り囲んでいなければいけない安全システムだとか、こういう問題については、ほとんどテレビに登場してくる原子力科学者たちを見ていると、「この人たちはひょっとしたら、原発のことをわかってないんじゃないのか」と思うくらい、見識がない。
内田:そうですね。
中沢: ・・・明治以降、ヨーロッパの科学・技術文明や経済システムや国家機構などを取り入れたんだけれども、いつも理解は表層だけでとまってしまった。
問題は、じつはこの原理の問題にあるわけです。この原理というものに対して科学者も技術者も手つかずのまま放置して、無思考のまま来てしまったということでしょう。マニュアル読んで原発を使ってるみたいなところが見えてきてしまう。
ブリコラージュなるフランス語、ここでは「現場的な知恵」といった意味で使われているようだ。福島第一原発で話題になった「おむつに使う高分子ポリマー」とか、「入浴剤」は、この「現場的な知恵」で考えだされたものだ。中島氏は、これらは「ふつうの科学者としていってはいけない」ものとしているが、私は、むしろ現場の技術者の「知恵」として、あるいは「創造性」として評価してもいい。
放射能に汚染した水が漏れだしている状況では、とにかくなんらかの手段で漏出の原因を特定するとともに、漏出を止める必要があったわけだ。このために「おむつ」だろうと「入浴剤」だろうと、それを達成する手段としてなんでも「機能的」にそれを達成するものであればなんでもよい。まさに現場的な知恵だ。
こうした「知恵」が発揮された場面として、もう40年も前であるが、原子力船「むつ」で放射線(中性子線)漏れが発生したとき、「ホウ素入りのごはん」を焚いて、これで漏れだしてくる中性子を止めようとした話を思い出した。よく知られているようにホウ素は中性子の反応断面積が大きく中性子線を効率よく吸収する。ホウ素入りのごはんで漏れてくる「隙間」をふさいで、その場を乗り切ろうとしたわけだ。
この「ホウ酸入りご飯」の話を聞いたとき、非常に感心したのをおぼえている。まさに、原子力業界のブリコラージュ大賞第一位といったところだろう。ただ、この例では、問題を解決することはできなかったのだが・・・。
「現場的な知恵」を発揮すること、これはこれでよい。
しかし、こうした「知恵の発揮」、応急措置は応急措置、その場限りの措置ということには間違いない。事故現場で発揮された「知恵」のすばらしさと、そもそもの設計の堅固さとは区別して考えねばならない。中沢氏の批判指摘は、その意味でもっともなことと感じる。その場限りの応急措置に頼るような場面が発生するような事態はあってはならない。
日本的システムは原子力の管理に対応できない!: 内田樹は、今回の原発事故の発生以前から原発には反対だったという。その論拠、なるほど、と思わせるものだ。以下、引用。
平川: ・・・ お二人の原発に対する立ち位置というのは。
内田: 俺はずっと反対だったよ。
平川: ああそうなの、明確に?でもはっきりは言ってなかったんじゃない?
内田: 言っていることはいつも同じだよ。テクノロジーはテクノロジーだから、それはニュートラルなものだから、原子力にいいも悪いもないわけだよね。原子力っていうのは、ある種の自然物だからさ。
問題は、それを人間がコントロールできるかどうかっていう人間の側の能力の問題でしょ。人間の愚鈍さについてはぼくはきわめて悲観的な人間だからさ、とてつもないテクノロジーを発明する能力はたぶん天才的な人間には備わっている。だからハイテクノロジーは生まれてくるんだけれど、そのハイテクノロジーを安全かつ恒常的に管理するためには、かなり高いレベルの知性が、集団的・継続的に必要なんだけれど、それはないでしょう。
平川: うん。なるほど。
内田: 一定レベルの知性を継続的に維持できるだけの教育システムがあるのかっていうことに関しては、俺はきわめて悲観的だから。だから、原発反対だったの。理由は、人間は自分の愚鈍さを勘定に入れる習慣がないから。
平川: 日本だからってこと?
内田: そうだよ。人間一般でもいいんだけれど、とくに日本人と日本のシステムは、これについては本当にダメだからね。
テクノロジーというのは、それに反対するとか、信用するとかいうことの対象じゃないんだよ。ぼくらがみるべきなのは、そのテクノロジーを管理する人間の資質と管理体制。日本のエスタブリッシュメントには申し訳ないけれど、原発のような危険なテクノロジーを扱うような知的な訓練を受けていないから、っていうのがぼくの原発反対論の根拠なの。原発に反対する特段の科学的根拠があるわけでもなく、純然たる人間観察に基づくところの原発反対論なのだよ。
このあたりの内田樹の議論、高木仁三郎の原子力システムといった巨大科学技術に対する考えに通じるものを感じさせる。
さらに、彼は、日本的な文化的特質・背景からいって、リスクの高いシステムを制御することはできない、とする。彼の議論を、私なりに解釈すると、原発といったリスクの高いシステムは、それ相応の「かまえ」というものが必要と主張しているように思う。多神教をベースとする日本的文明では、その「かまえ」をとることができない、というのだ。
内田: 一神教の文明の中には、恐るべきものをどうやって制御するかということについては伝統的なノウハウがしっかり血肉化していると思うんだよ。「鬼神を敬して之(これ)を遠ざく」だから。鬼神の扱い方って、それぞれの社会の霊的な文化的特徴と同期するでしょう。日本人は日本人独特のしかたで荒ぶる神を制御しようとするんだけれど、「恐ろしいもの」を「あまり恐ろしくないもの」と見境がつかないように「ぐちゃぐちゃにする」とうのが日本的なソリューションだから。
中沢: それなんですよ、問題は。
内田: だからフランス人がみたときに、原発処理のやり方を見て、これは「ブリコラージュ」だって言ったっていうのは、よくわかる。「荒ぶる神」を鎮める儀礼をしているはずなのに、神官もいないし、儀礼もないし、聖典もないし・・・ぎっくりしたと思うよ。
なるほど、と思う。この議論、するどい「安全神話」批判になっているように感じる。こういう観点から、原子力システムの安全性を考えてみるというのも必要なのかもしれない。
備忘録として、内田、中沢、平川の鼎談のなかで興味深く思った部分メモしておいた。