相田英男著「東芝はなぜ原発で失敗したのか」を読んでみた
April 19, 2018 – 10:47 am近所の公立図書館で「東芝問題」を扱った本を2冊借りてきた。本書は、そのうちの1冊だ。
読後感を述べるとするなら、物語としてはなかなか面白いな、といったところだ。ただ、本書の構成とか、その主張するところには、多少、違和感をおぼえた。
本書を読み終えたところで、本書の印象を簡単にメモしておくことにした。
何故、本書を読んでみようと思ったのか?:
我が国を代表する東芝という大会社が東証2部に転落してしまうなんてこと、全く想像もしなかった。この事件を通じて、民間企業というのは、いくら国を代表するような企業であっても何が起こるかわからないこと、改めて思い知った。
私、個人的には、東芝という会社の社風が好きで、一時、多少の株を取得したこともある。残念なことに、私が株主になった会社、どれも深刻な問題を抱えるというジンクスがある。ソニー、日本航空、三菱自動車、そして今回の東芝、株式を所有している間に、どこも大きな困難を抱えた。私には、投資センスがないということで、今は、株式投資からほぼ全面的に撤退した。
東芝の転落は、私の働いていた原子力業界を巡る諸環境の変化が背景にあるにはちがいない。その実相を知るということは東芝のみならず、原子力業界の未来を知るヒントになるのではと思う。原発を製造する重電メーカは、世界的にどこも問題を抱えている。安全規制が年々厳しくなってきている。特に7年前の福島第一事故以降は以前にも増してその厳しさが増した。
私自身、10年前までは原子力業界にお世話になっていた。業界になにが起きているのか詳しく知りたいという想いは強い。今回の東芝の騒ぎ、東芝特有の問題なのか、それとも原子力業界の抱える問題なのか。そのあたりを見極めてみたいと思っている。
本書の著者と構成について:
本書の著者、相田英男。本書の巻末の著プロフィールには次のように記されている:
1969年、山口県生まれ。国立大学工学部卒業後に大手重電機メーカーに勤務。専門は機械材料の評価・分析と原子力発電機器に使用される金属材料の解析。副島国家戦略研究所(SNSI)研究員。(以下略)
失礼ながら、このプロフィールでは、著者のひととなりはわからない。多分、著者はジャーナリストの道を目指す現役の原子力技術者ということだろう。それ以上、自分自身のことを開示したくないということなのかもしれない。
さて、本書の構成についてだ。本書は全六章からなる。前半のふたつの章は本書のタイトルの東芝問題を扱かっているが、後半は我が国における原子力業界の動向について、原子力の初期の導入のいきさつを詳しく述べるとともに、その福島第一事故とのかかわり、そして今後の展開について(著者の原子力に対する想いを含めて)書いている。
前半部と後半部がどのようなつながりをもたせて議論したいのか、私には、よく理解できなかった。なにか、私の理解を超える著者自身の想いというものがあるのだろう。
東芝転落の背景にあるもの:
東芝の転落は、なんといってもウエスティングハウスの買収に始る。本書では、この買収内容、次のように記述している:
東芝は、2006年に、ウエスティングハウスの原子力部門会社を英国BNFLから600億円を超える巨費を投じて買収した。このウエスティングハウス社は英国原子燃料会社(BNFL)の傘下にあった。この頃、ウエスティングハウス社の株式の総資産価値は200億程度と言われていた。ところが、東芝の買収額はなんと周囲の予想の3倍となる高値だった。(p.43)
当時、三菱重工業の佃社長が、買収金額があまりに大きくとても買えないと言っていたことを思い出す。PWR型炉のウエスティングを異なる炉系BWR型炉の製造メーカが破格の額で買収するのを不思議に感じていた。私の個人的な感想を述べるなら、この時点で既に東芝幹部は血迷った判断をし、今回の転落に至ったとしか言いようがない。
本書では、買収劇の後、世界の重電メーカーの暗闘ともいえる動きのなかに東芝が巻き込まれ、東芝が転落していく様が描かれている。おそらく、私などが窺いしれないような「切った貼った」の世界があるに違いない。このような世界、誰が悪いと言ってもしょうがない。身の程をわきまえない、東芝の経営判断こそが転落の最大の原因だ。
そもそも、東芝という会社は「ノート型パソコンのダイナブックや半導体フラッシュメモリなど、世界的に優れた製品を開発できる高い技術力があった。他社が真似できなかった技術を生み出す環境が、東芝の社内には確かにあり、それが東芝の強みの源泉のはずだった(p.92)」。これが、最近になって、大きく変化してしまう。キーワードは「選択と集中」。東芝の自由闊達な社内環境のなかに、アメリカの企業経営スタイルを「選択と集中」という掛け声で持ち込み、破壊してしまったようだ。「選択と集中」で経営資源を原発と半導体の2事業に集中させてしまった。
これこそが東芝転落に向かわせた主因のようだ。本書に描かれて東芝の転落劇を読み、私なりにまとめると上述のようになる。
このアメリカ型企業経営スタイルを持ち込み普及させた張本人として、本書は、西室泰三13代社長が大きな役割を果たしたとする。この西室氏、社長を退いた後は、経団連副会長、東京証券取引所会長、そして日本郵政の社長を歴任する。日本郵政の社長の時期にオーストラリアの物流会社の巨額な買収を指揮したのだが、これが巨額な損失を招いたことは良く知られている話だ。確かに、本書に描かれているように、西室泰三の過誤責任は大きいと思う。
我が国における原子力業界:
本書では、東芝問題というより、我が国の原子力業界のありようについて多くのページを割いて議論する。我が国における原子力の導入時のエピソードから福島第一事故、そして将来の原子力のあるべき姿についてまで議論されている。議論は、かなり「ユニーク」だ。ユニークということを超えて殆ど妄想とも思える部分が目につく。
まず、本書の著者、相田英男の原子力に対する立ち位置。ひとことでいうと「将来にわたって原子力を推進しなければならない」というものだ。第6章のタイトルは「原発止めれば日本は滅ぶ」だ。我が国には巨大なカルデラ噴火の危機が迫っており、この危機に対抗するためには、「新世代型原発」の開発を進めなければならないとする。「私が考える、カルデラ噴火から日本人が生き延びるであろう唯一の方法、それは原発を動かすことだ、と断言する(p.252)」とまで言い切る。
この第6章で展開される議論こそが、著者の本書執筆の目的だったように感じる。確かに、ここにまとめらている「原子力物語」は週刊誌ネタのような興味本位で読む物語としては面白いが、著者の独断と偏見に満ちた主張、もう結構と思ってしまう。本書のタイトルの東芝問題は、著者の書きたかった「原子力物語」の単なる導入部だったことに感じた。
原子力の将来を論じる際には、福島第一事故についての自身の立ち位置を明確にすること抜きには議論することができない。本書における著者の立ち位置は、実に、「明快」だ。以下のようなものだ。
副島原発の事故についての責任を、東電に対してのみ追及する風潮に、違和感をずっと感じている。東電と経済産業省(原子力委員会)と原発メーカという原発推進はの責任は、確かに重い、しかし原発反対派も、これ見よがしに、「東電の経営陣は事故を当然ながら予見できていたはずだ」などと、声高に訴えることができるのか、という疑問が私の頭の中から消えない。この事故疑問に答えをだそうと私は福島事故の後から、戦後の日本が原子力を導入してきた歴史に関する文献を、少しずつ集めて読み込んだ。・・
過去の文献を読み込んだ私の結論を簡単に言う。福島第一事故の責任は、東電だけではなく原発反対派にある、ということだ。・・
・・その証拠の1つが、今から53年前の1964年の衆議院科学技術振興委員会の議事録に、はっきりと記録されている。・・その結果が、53年後に福島原発のメルトダウン事故に繋がった。福島原発事故の原因は、50年前にビルトインされていたのである(p。261)
因みに、1964年の衆議院科学技術振興委員会の議事は、「茨城県東海村の特殊法人日本原子力研究所(原研)における、職員の労務問題」に関するもので、参考人として出席した「原研の所長兼理事長である物理学者の菊池正士と原研労働組合(原研労組)の書記長である一柳勝吾氏」の議論(p。117)を指している。
なんとも不思議な議論が展開されているというのが、私の偽らざる感想だ。ここまでにする。
私の印象だけを述べて、このエントリを終えることにする。以下だ。
福島第一事故以降、さまざまな議論が沸き起こった。しかし、この事故が「54年前にビルトインされていた」という主張には驚いた。