黒古一夫著 「文学者の『核・フクシマ論』」を読んでみた
March 25, 2014 – 12:11 pm福島原発事故後さまざまな立場で核・原発に関わる主張がなされている。本書もそのひとつだ。
本書では、著名な3人の文学者、吉本隆明、大江健三郎、村上春樹3人の福島原発事故に対する態度・主張について評論・議論している。
吉本、村上に対しては、著者の反核・反原発の立場から強く批判する一方、大江の従来からの反核、反原発の思想、そして福島事故後の行動に対して賛辞を送る。
私なりの本書に対する感想を述べると、本書で展開される議論は、反核、反原発というよりむしろ反科学主義的な主張を前面に押し出しているとの印象をもつ。強い党派的な主張を感じる。
私自身、福島事故を経験したものとして、今後、我が国は反原発あるいは脱原発の道を歩むべきとの考えに立ちたいと思う。しかし、本書におけるような反科学主義的な主張を軸に展開される反原発、脱原発の運動とは距離を置かざるを得ない。
そうした立場からみて、本書の反科学主義的な主張を感じる部分としてふたつを以下に引用・メモしておいた。
人工放射能は体内に蓄積?! : 吉本隆明の福島事故後の週刊新潮のインタビュー記事「『反原発』で猿になる!」を批判・批難した部分に、「人工放射能は体内に蓄積され『内部被曝』を引き起こす」なんていう私にとっては不可思議な話がでてくる。
以下、抜粋:
大袈裟な、と言って一笑に付すわけにはいかない。吉本のこの言説には重大ないくつかの「間違い=デマゴギー」が存在するからである。では、「知の巨人」吉本の錯誤=デマゴギーとは何か。それは、自然界に存在する放射能(自然放射性核種、例えばカリウム40とかラドン)と原発や原爆から発生する放射能(同じく人口放射性核種、例えば放射性ヨウ素、セシウム137、ストロンチウム90など)が、同じα線、β線、γ線などの放射線を出すから同じだ、と言っていることである。
放射線遺伝学者の市川定夫らによる最近の研究成果が明らかにしているように(例えば市川の市民講座「放射能はいらない」二〇一二年、などの言説)、自然界に存在する放射能は身体に取り入れたとしても、長年の習慣で(DNAに記憶されているので)体外に排出してしまうが、人工放射能の場合は体内に蓄積され「内部被曝」を引き起こすという「大きな違い」があるという、この自然放射能と人工放射能の「違い」にこそ、核(原水爆、原発)問題の鍵があるのに、引用を読めばわかるように、吉本はその「違い」を全く考慮していない。このような自然放射能と人工放射能を区別しないところに、「微量な放射能は健康にいい」とか「原発からの放射能、恐れるに足らん」などという迷妄が世に流布される原因があり、そのような「無責任」な論議に吉本の「反・反核」思想も寄与していたと言えるのである。(p.55)
ここで主張されているように「自然放射能だと体外に排出されてしまうが、人工放射能の場合には体内に蓄積され『内部被曝』を引き起こす」ということが真実だとすると、おかしなことになってしまう。
例えば、内部被曝の恐ろしさの典型例としてよく引き合いにだされるトロトラストについてみてみよう。すぐれた造影剤として二酸化トリウムが使用された時期がある。これにより数多くの障害(発癌)が発生することが明らかになり、現在では使用されることはない。内部被曝の恐ろしさを議論するときに必ずといっていいほどでてくる有名な話だ。また、鉱山労働者のラドン吸入による内部被曝の例としてよく知られている。
トリウムそしてラドンのいずれも自然放射能だ。
体内被曝は、自然放射能と人工放射能の違いにより影響がどうこうということではないのだ。こうした主張が行われる背景に、私は、反核・反原発というより、むしろ反科学主義の臭いを感じてしまう。
「核のゴミ」を処分する「英知」とは?: 福島原発事故の発生から数か月後、村上春樹が「カタルーニャ国際賞受賞」に際して受賞記念のスピーチを行った。本書の著者、黒古はこのスピーチを中心に村上春樹の「反核」の姿勢を強く批判している。
さまざまな点で批判されるのであるが、村上春樹そして村上に賛辞を送る批評家である加藤典洋についても批判がされる。なかでも、おわりの部分で、彼らが放射性廃棄物に対して明確な態度をとっていないとして、強く批判するところがある。この部分、なんとも不思議な議論の展開と感じる。
以下、関連部分を抜粋:
もし、私たちが「未来」にも私たちの現在のような生活が続くことを願うなら、原発は即刻「廃止」し、その後「英知」を結集して使用済み核燃料や高レベル放射性廃棄物、廃炉による「核のゴミ」などを、どのようない処分するのかを検討し、原発に変わる「自然エネルギー」(再生可能エネルギー)の開発を早急に進めていくしか残された道はない。・・・(p.219)
そうだと思う。しかし、われわれは、そうした「英知」をどのように獲得すべきなのか・・
・・五四基の原発を全て廃炉にすれば、その廃炉作業に何十年何百年もかかり、かつ何百トン、何千トンと各原発に「一時的」に保管されている核廃棄物(高レベル放射性廃棄物)や既に再処理されたプルトニウムの処分の問題が残される。故に、全原発の廃炉の工程表を早急に作成し実施過程に入らないと、この狭い日本列島全体がいつか放射能に汚染され、人間が住めない島になってしまうのではないか、と懸念される。
故に、「科学が生み出した問題は、科学によって解決していくのが正解」という加藤典洋のような思想「見解」は――それはまた、第一部で批判した吉本隆明の原発容認論に相通じている――、原発に関する限り、まさに「科学神話」が生み出した「妄想」の類であり、また「核廃棄物=核のゴミ」の問題について一切語らない村上春樹の「反核スピーチ」と同様。「観念的=非現実的」な「夢想家」の「反核」論なのではないか、ということである。フクシマは、まさにそのことの証明でもあったのである。(pp.222-223)
なんとも、よく分からない話が展開されてしまう。「科学が生み出した問題は、科学によって解決していくのが正解」という加藤典洋の主張は、まさに上述の問題解決のための「英知」は科学のなかにこそ見出すべきというとこではないか。これを「妄想」と切り捨てて、何をもって「英知」とするのか。
そして「フクシマがまさにそのことの証明」なる言説は、私には、理解できない。なんとも不思議な議論だ。