安富歩著「原発危機と東大話法―傍観者の論理・欺瞞の言語―」を読んでみた

June 18, 2013 – 12:45 pm

ほぼ2週間前、安富歩が早川由紀夫群馬大学教授の「毒米」発言についてコメントしているのを読んだ(「原発災害とアカデミズム」を読んでみた)。そこで、「なんとも、私が忘れていた『青臭い』議論ではないか。心が洗われる」と感想を述べた。かなりの衝撃を受けたのだ。
さっそく、安富歩の著書をさがした。近所の公立図書館でみつけたのが本書だ。
読んでみた。予想通りの「青臭い」議論が展開されている。40年も前の私の学生時代によく聞いた「ラディカル」なる言葉・表現がぴったりの議論だ、と思った。
原発問題に限らず、我々の生きている日本という国・社会の在り様について、深く考えさせられた。
気づいたことなどをメモしておいた。

原発事故から日本社会を考える: 本書は、著者が「原発事故を受けて書いたブログの記事を元にした」ものであるという。本書の「はじめに」には、原発事故そして放射能が降り注ぐという状況に遭遇し、原発事故そのものに驚愕するとともに、それに対する周辺の人々の反応に驚いた様が次のように記されている。

私が一番驚いたのは、一般の人々の反応でした。原子炉が爆発しているのを見た私は、果たして日本から脱出すべきや否やを考えていました。ところが、原子炉の数十キロ範囲内にいる人々が、しかも大量の放射性物質が降り注いだことが明らかになったあとでも、平然と日常生活を継続しているのを見たときには、心底驚きました。そのころ、ある意味で福島原発から世界で最も離れている中国ではパニックが起きており、ヨウ素入りの塩はおろか、普通の塩でさえも、売り場から消え去る始末でした。ところが日本列島の人々は、平然としており、普通に暮らしているのです。
・・・・
この一連の姿を見て、私は、かって考えたことを思い出しました。現代日本人と原発との関係は、戦前の日本人と戦争との関係に非常によく似ているのです。そしてまた、この行動パターンは、江戸時代に形成された日本社会の有様とも深い相同性を持っています。特に私は、日本社会が暴走する際に、独特の言葉の空転が起きるように感じています。

そして、本書で扱う問題、議論について以下のように述べる。

本書では、この問題を考えたいと思います。これは、原発危機に関する議論であるとともに、原発危機を通してみた日本社会についての議論でもあります。そしてこの議論を踏まえたうえで、日本社会は今後、どのような道を歩むべきなのか、そのなかで我々はどのように生きていけばよいのか、を考えたいのです。

武谷三男の「ガマン量」 : 以前、本ブログで「武谷三男編 『原子力発電』を読んでみた」を書いた。このなかで、放射線の許容線量について武谷三男が主張した考え方について触れた。その考えかたとは、「許容量とは安全を保障する自然科学的な概念ではなく、有意義さと有害さを比較して決まる社会科学的な概念であって、むしろ「がまん量」とでもよぶべきものである。」ということだ。

本書でも、この武谷三男の観点から今回の福島第一原発事故にもたらされた被曝について次のようにのべる:

この観点があれば、原子力発電所の事故降り注ぐ放射能を我々がどのレベルまで許容すべきかが明らかになります。そんなものを浴びても我々にはなんら有益なことはなく、ただひたすら有害なのですから、がまんさせられる筋合いはどこにもありません。それゆえ、この場合、我々の東京電力や政府に対する許容量はゼロです。ひとつぶの放射性物質とて、許容するわけにはいきません。たとえ東電管区に住んでいて、東電の電力の恩恵とやらを受けているとしても同じことです。なぜならすでに電気代を支払っているので、それについては決済が終わっているからです。
これに対して、我々の住む地に不幸にして放射能が降り注いだときに、その地で生活をけいぞくすべきかどうかの判断は、別の話になります。このときの「がまん量」は、その地を離れることによって生じる損害と、放射能を浴びることによって生じる損害との比較によって決定されます。それは各人の判断に依らざるを得ません。本来なら、政府や東電が、その損害を軽減すべく、引っ越しの費用なり生活保障なりをすべきであって、そうすれば「がまん量」の水準はその分だけ下がります。
東電や政府に対する許容量と、生活上での許容量とは、全く別の問題です。この区別が、原発事故を生きるための認識の基盤を与えてくれます。(p.51)

そうなのである。ひとびとは、この事故で環境に放出された「ひとつぶの放射性物質とて、許容するわけには」いかないのである。今般の事故について、放射線被曝について考えるスタートラインは、ここでなければならない。学術会議などの「正しく怖れる」なんてところからスタートすると、おかしな議論になってしまう。

日本社会の特質を「役」と「立場」で捉えなおす: 原発危機を通じて日本社会の特質を分析する。現代日本社会を「立場主義社会」とし、「役」そして「立場」という概念を用いて分析する。このふたつの概念を用いて、現代日本の病根をえぐりだす:

私は、明治以降の日本社会の変遷は、「役の体系」から、「立場の生態系」への移行というように理解できるのではないかと思います。江戸時代の「役」は、実際には二百数十年間にわたって発動されなかった「軍役」の体系であって、儀礼化していました。ですから、変化しないことが重要であり、そこが守れれていることで全体が秩序化され、その秩序の元で、社会経済は発展し続けていたのだと思います。
一方、現代社会では「立場の生態系」は、実際に仕事をしています。社会経済は時々刻々と変化しており、「役」もまた時々刻々と変化せざるを得ません。変化しない組織は、組織全体が「役立たず」となって潰れてしまうからです。ではどうして社会経済が変化するかというと、「立場の生態系」の全体が変化するからです。全体の変化に個々の「役」と「立場」とが必至で対応して変化すると、また全体が変化する、という関係になっているのです。
この生態系の運動は、実際にやらねばならない仕事が必要とする活動とは、必ずしも一致しません。両者が合致していれば、組織も社会もうまく作動します。高度成長期には、この両者が非常によく一致していたのではないでしょうか。
さきほど現代日本社会は「立場主義社会」だと言ったのは、この社会の主導権が、なすべき仕事や果たすべき役割を示す「役」のほうにあるのではなく、「立場」のほうにあると考えるからです。誰かがある組織に所属していると、その人の立場を守ることが重視されて、そのために無理やりに「役」が捏造される、という事態が頻繁に起きているように思うのです。(p.223)

そして今般の福島第一事故で問題にされた「御用学者」について次のように論じる:

原子力御用学者の「役」は、「我が国は」で始まる無意味な論文を書き、政府の審議会に出て国策に太鼓判を押し、いろいろ研究費をもらってどうでもよい研究を行なっているフリをして、こういうた「役の体系」こそが正しいのだという異常な信念を学生たちに押し付けて洗脳することにあります。(p.226)

日本社会は健全なのか?: 東日本大地震そして福島第一原発の事故のなかで、日本社会はすくなくとも表面的には平穏であったように見える。ある意味、そうした日本社会は、国際的に賞賛さえされた。本当に、こうした日本社会、国際的に賞賛に値するものであったのか。このあたり、著者は次のような議論を展開する;

・・・ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごとに避難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、

「ゴミ当番が回ってくるから」

というのでした。日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、身に染みて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。
海外の人々は、津波の衝撃を受けながらも自分のやるべきことをやり、絶望したり自暴自棄になったりしない日本人を、驚異の目で眺め、賞賛しました。日本人のこの尊敬すべき行動は「役と立場」のゆえだと私は考えます。
そしてまた、原発事故に際しては、どう考えても危険極まりない状況で、政府が「安全だ」と言っているからといって、悠然と日常生活を続けている日本人を見て、海外の人々はまた驚嘆しました。しかし今度は、賞賛していたのではなく、あきれていたのです。これもまた、「役と立場」のゆえなのです。(pp.236-237)

なんか自分自身の姿を思い起こしゾッとしてしまう。


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  2. Aug 3, 2013: 原子力安全の論理 | Yama's Memorandum

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