武谷三男「科学入門―科学的なものの考え方―」を読んでみた

October 28, 2009 – 5:42 pm

「科学的」に考えなくてはいけないとか、「科学的」に証明された事実であるとか、「科学的」という言葉がよく使われる。しかし、この「科学的」ということが一体何を指しているのか、よくよく考えてみると、(少なくとも私には)はっきりしない。そういうこともあって、いろいろな科学論にかかわる本を読んでいるわけだ。最近、武谷三男の「科学入門 -科学的なものの考え方-」読んだ。なるほどと思ったことも多々あった。メモしておいた。

武谷三男の一般向け著作のうち、「物理学入門(上)―力と運動」について本ブログの「アルキメデス『テコの原理』」で少し触れたことがある。そこで、この「物理学入門(上)」を高校生のときに読み、その影響を受け大学で物理学を学ぶことにしたこと、そして。この「物理学入門」には下巻がないことを残念と感じていたことを書いた。

今回読んだ「科学入門」は、「物理学入門」の上巻で議論された「力と運動」に加え、下巻で議論されるはずだったアインシュタインの相対性原理とか量子力学についても議論の対象にされている。加えて、パストゥールによる細菌学の確立についても章をさいて議論している。

物理学に限定することなく、科学一般を議論の対象にし、「科学的なものの考え方」について議論している。以下、私の印象に残っているところを抜粋しながら、感想を述べることにしよう。

アリストテレスは現実を見なかったのか? アリストテレスの物理学と現象の観察との関係について次のように記述されている:

ところで、そのアリストテレスの物理学も、一般には形而上学の延長として、現実を無視したように言われがちですが、けっしてそうではないのです。ただ、その理論的解釈が根本的に間違っているということで、アリストテレスも現象を或る意味で忠実に見ているのです。そこがおもしろいところです。

重いものと軽いものを落とす場合、たとえば、鳥の羽と石を同時に落とすと、もちろん石のほうがずっと早く落ちて、鳥の羽はフラフラと落ちてくる。そういうふうに重いものは速く落ちて、軽いものはゆっくり落ちてくるというのはうそではない、実際なのです。

・・・・ というようにアリストテレスの観察は正しいのです。ところが、それを解釈し理論化したものは必ずしも正しいとはいえない。(p.60-61)

アリストテレスは「現実を或る意味で忠実にみている」のであるが、「その理論的解釈が根本的に間違っている」、とされる。「科学的」な態度というとき、まず現象をあるがまま「観察」することの重要性が強調される。しかし、それだけではなく、加えて、その「理論的解釈」の正しさが重要であるとする。

では、正しい理論的解釈はどのように得られるのであるか?これに関連し、「技術の進歩」が取り上げられる。近代的な物理学が確立されてゆくルネサンス時代は、大砲といったものに代表される「技術の進歩」とのかかわりが重要とされる。

このような新しい技術がいろいろ使われるようになって、ギリシアの人の言うことは、ギリシア時代には目の前にある現象としては、わりとよく記述されているが、その解釈ではまったく役にたたなくなったのである。(p.63)

というわけだ。技術の進歩を背景として、ギリシャ時代の「静力学」からルネサンス以降の「動力学」の発展、現象のより進んだ理論的解釈を行なう必要、そして、そうした解釈を行うことを可能にする「社会的・技術基盤」が整ってきたたことに言及する。

パストゥールによる細菌学の確立と科学的な態度: 生命あるいは生物の発生について、パストゥールが細菌学を確立するまでは、自然発生説が主流であったという。なぜ、今日的な見方では非常識な自然発生説がもてはやされていたのか?以下、長くなるが、関連部分を抜粋してみよう:

生命はどういうふうに生ずるものか、生物はどういうふうに発生するのか、という問題は、古代中国やエジプトなどでも古くから考えられました。そしてすべての生物は、神の創造だという宗教的伝説となっております。それぞれの民族は、いろいろな形でこのような伝説をもっているのです。
では、パストゥールまでの人たちは、どうしてまちがったことを考えていたのでしょうか。経験を重んぜずに、宗教的な神秘的なおとぎ話のようなものだけを信じていたのでしょうか。いいえそうではありません。それぞれ経験をもとにして、経験に忠実に考えた結果がそのようなことになったのです。りっぱな科学者や哲学者も、みなまちがって考えていたのです。
宗教的なおとぎ話すら、経験とまるで関係のないものではないのです。われわれの考え方はわれわれの生活の範囲を、それほど飛び出すことはできないものなのです。どんな空想をたくましうしても、その空想がもっている論理というものは、われわれの生活現象であつかっている範囲のものなのです。
・ ・・
このような経験をあつめると科学になるのでしょうか。考えもなくやたらに経験だけをあつめても決して科学になるものではないのです。十分に考え調べて経験をあつかわなければならないのです。(p.79)

ここでも、観測、経験の集積だけでは、科学にはならないこと、理論的解釈の重要性について議論されている。

さらに、よごれたシャツで、小麦粒のはいっているつぼの口をふさいでおくと、三週間で小麦がねずみになるととなえました十七世紀のヴァン=ヘルモントの実験を例に、

これはほとんど今日の人が笑うようなものでしょう。しかし、も少し、手の込んだ誤りにたいしては、きわめて容易にだまされてしまうものです。学問にはどこまでもしつこい懐疑精神、批判精神というものが必要なのです。(p.84)

とし、学問(科学)には、「懐疑精神」「批判精神」が重要であることを強調している。

シュレーディンガーの猫(観測と主観)について: 量子力学の話、その解釈になると、必ずでてくるのが、このシュレーディンガーの猫についてだ。観測と主観とのかかわりについてだ。

この議論、私が学生時代によく議論されていたと記憶している。特に文系の哲学とか心理学を専攻するひとたちが得意満面に話しているのを聞いたことがある。ところが、最近、こういう議論、ほとんど耳にしなくなった。どうでもよくなったということなのか?

本書では、「シュレーディンガーの猫」にかかわる議論について以下のように記述している。抜粋してみた:

・・・・二つの穴から電子が同時に入るというとき、これを量子力学では一方の穴から入った状態と他方の穴から入った状態の重畳と考えるのです。観測によってその重畳の片方が消えるのです。量子論の議論のときにシュレーディンガーは、猫のたたえという有名な例を持ち出しました。放射性物質から放射線が飛び出して計数管を鳴らす、計数管が鳴るとリレが働いて青酸カリの入った瓶が割れる、という一連の装置の中に猫をいれます。瓶がわれると猫が死ぬというわけです。ところが放射線が出た状態と出ない状態の重畳は、観測した瞬間にどっちかにきまるのですが、その放射線が計数管に入ったあとまでこの考え方を形式的につづけますと、計数管が鳴った状態と鳴らない状態の重畳、それからリレが働いた状態と死なない状態の重畳があって、この重畳した状態が、観測した瞬間にきまる。つまり猫の生きている状態、死んだ状態は、観測した瞬間にきまるのだというような話になるのです。しかしそういう考え方は間違っているというのがわれわれの主張です。観測というのは人間の主観が観測するのでなく、微視的現象が計数管において巨視的現象になることです。(p.239)

量子力学的な世界である微視的現象と日常的に我々が接する巨視的現象を明確に区別し、我々が観測するのは「巨視的現象」といっているわけだ。

続けて、こうした量子力学の哲学の影響について、これが「重要な論理学的認識論的問題」を提供しているとし、次のように述べる:

このように、従来の量子力学の哲学への影響は、主観主義的考え方を導いたというほかにはあまりパッとしたものはないということになりましょう。—-しかし実際は重要な論理学的認識論的問題を提供しているのです。ところが、戦後は逆に観測理論とか、いろいろな哲学的観点とかが失われて、プラグマティズムというかアメリカニズムというか、量子力学を使って結果がでればよい、という傾向も出てきました。原理的な探求よりも、結果さえ出れば満足するという考え方で、これは物理学の発展のためにいいこととはいえません。日本で素粒子の研究をしている若い人たちの間にも、ただ計算して論文が出来ればよいという傾向があらわれて来たことを、われわれは心配しているのです。(p.239)

こうした傾向、ここでは、「戦後は・・・」との表現になっているが、本書が出版されてすでに40年以上がたった今日、「ただ計算して論文が出来ればよいという傾向」は、当然のようになってしまった、と感じる。とはいえ、哲学論議をしているだけで研究論文も書かないというのも、いかがなものか。研究者・科学者の世界は大変だな、と改めて思う。

まとめ: 抜粋だらけのブログ記事になってしまった。「科学的」とはどういうことか、考えるうえでのひとつの資料にはなるだろう。


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