アインシュタインの「物理学はいかに創られたか」を読んでみた

December 10, 2009 – 12:22 pm

ほぼ1ヶ月前、「ノーベル賞物理学者・小林誠先生の講演に行ってきた」を書いた。この講演のなかで、小林先生が高校時代に読んだアインシュタインの著書「物理学がいかに創られたか」が物理学を志す契機となった、との話があった。この本、私も学生時代に読んだ記憶がある。40年ぶりに、読み直してみた。



「物理学はいかに創られたか」は、岩波新書(赤版:上下巻2冊)として1939年に第一刷が発行され、1963年の第30刷で改版されている。私の本棚にあるのは、1971年の第40刷発行のものだ。この岩波新書版は、歌人でもある物理学者、石原純による翻訳である。原著「The Evolution of Physics」の初版がCambridge University Pressから発行されたのが1938年であるので、その翌年には、この日本語版が出版されている。この原著「The Evolution of Physics」は、pdfという形で、無料でダウンロードすることができる(pdfのアドレス)。

今回、この書を読み進めるにあたって、興味深く感じたところについては、翻訳文と原著の表現を見比べた。石原純の翻訳、日本語としてのすばらしさを感じたのではあるが、「意訳」、もっというと「超訳」とも感じるところもあるように思えた。

本書のタイトル自体が、原著の「The Evolution of Physics」(直訳すると、「物理学の発展」となると思う)が、「物理学はいかに創られたか」となっていることに、若干の違和感があった。というのは、この表題では、物理学が「実在」を超えて「創造」されても良くなってしまうとの印象を持ったからだ。

本書のなかで、私なりに大切なことが書かれているなと感じたところを、翻訳文と原著の英文を、以下、抜書きしておいた。

本書の誰を読者として想定しているか: 本書の執筆のねらい、どのような読者を対象としているかについて、Prefaceに以下のように記述されている:

まず、本書の狙いについて、

・・私たちは物理学の教科書を書いたのではありません。ここには初歩的な物理学上の事実や理論を系統立てて述べてはありません。私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。・・・

We have not written a textbook of physics. Here is no systematic course in elementary physical facts and theories. Our intention was rather to sketch in broad outline the attempts of the human mind to find a connection between the world of ideas and the world of phenomena. We have tried to show the active forces which compel science to invent ideas corresponding to the reality of our world.

対象とする読者については、

この書物を書く間に、私たちはこれをどんな人たちに読んでもらうべきかについてかなり論じ合い、またわかりやすくすることについて苦心しました。読者は物理学や数学の具体的な知識を何ももっていなくとも、適当な思考力をもってさえいればよいと思います。ことに物理学的並びに哲学的思想に興味を抱く人々を望むのであって、そういう人々は幾らかおもしろくない、または少し解りにくい場所があっても、それは我慢して読み続けて頂きたいと思います。どのページを読むにしても、それ以前のものをよく注意して呑み込んでおけば、きっと理解できるに違いありません。

Whilst writing the book we had long discussions as to the characteristics of our idealized reader and worried a good deal about him. We had him making up for a complete lack of any concrete knowledge of physics and mathematics by quite a great number of virtues. We found him interested in physical and philosophical ideas and we were forced to admire the patience with which he struggled through the less interesting and more difficult passages. He realized that in order to understand any page he must have read the preceding ones carefully.

日常的な言葉と科学的な言葉(科学用語)との関係について、

・・・・科学は自分でつかうための特別の言葉や特別の概念を作らなければなりません。科学上の概念もしばしば日常生活でつかう普通の言葉に現れる概念から出発しますが、これが全く異なったものに発展してしまいます。科学的思想に適用されるようにするために、それは変化し、かつ日常の言葉に伴っている曖昧さがなくされるのです。(上巻p.17)

— science must create its own language, its own concepts, for its own use. Scientific concepts often begin with those used in ordinary language for the affairs, of everyday life, but they develop quite differently. They are transformed and lose the ambiguity associated with them in ordinary language, gaining in rigorousness so that they may be applied to scientific thought.

理論的体系はユニークである必要はない?: 次の記述は、「物理学の『理論的体系』が必ずしもユニークである必要はない」との印象を(少なくともわたしには)感じさせる。この記述の冒頭の「それ」は「ニュートン力学の体系」を指すのではと思う(違うかな?)。

実際それは私たちの推測して作り上げた事柄で、すべて実験によって成否を判断されなければなりません。そしてどの仮定も一つだけ引き離して検べてはいけないのです。太陽のまわりを幾つもの惑星が回転する場合には、これが立派な力学的体系をなしていますが、しかし私たちはこの場合にも、これと異なった仮定にたつ別の体系が形作られていると想像することは必ずしも困難ではありません。

It is really our whole system of guesses which is to be either proved or disproved by experiment. No one of the assumptions can be isolated for separate testing. In the case of the planets moving around the sun it is found that the system of mechanics works splendidly. Nevertheless we can well imagine that another system, based on different assumptions, might work just as well.

では、「客観的な真理(Objective Truth)」をどのように捉えるのか?

 物理学の概念は人間の心の自由な創作です。そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。真実を理解しようとするのは、あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。時計の面や動く針が見え、その音も聞こえて来ますが、それを開く術はないのです。だからもし才能のある人ならば、自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。しかし自分の想像が、観察を説明することの出来る唯一のものだとは言えません。自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、そんな比較が出来るかどうか、またはその比較がどういう意味をもつかをさえ考えるわけにゆかないのです。けれども、その知識が進むにつれて、自分の想像が段々に簡単なものになり、次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。また知識には理想的な極限があり、これは人間の頭脳によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。この極限を客観的真理と呼んでもよいのです。(上35-36)

Physical concepts are free creations of the human mind, and are not, however it may seem, uniquely determined by the external world. In our endeavour to understand reality we are somewhat like a man trying to understand the mechanism of a closed watch. He sees the face and the moving hands, even hears its ticking, but he has no way of opening the case. If he is ingenious he may form some picture of a mechanism which could be responsible for all the things he observes, but he may never be quite sure his picture is the only one which could explain his observations. He will never be able to compare his picture with the real mechanism and he cannot even imagine the possibility or the meaning of such a comparison. But he certainly believes that, as his knowledge increases, his picture of reality will become simpler and simpler and will explain a wider and wider range of his sensuous impressions. He may also believe in the existence of the ideal limit of knowledge and that it is approached by the human mind. He may call this ideal limit the objective truth.

新しい理論と古い(受け入れられ、有効であった)理論のとの関係をどのように捉えるべきなのか?

そこでともかく、私たちは一般相対性理論のプログラムを滞りなく進めてゆくことに成功したと考えてみましょう。しかし、そうなると、私たちは現実から余りに離れ過ぎて、空想におちいるというような危険がありはしないでしょうか。私たちは昔の理論がいかによく天文学の観測を説明するかを知っています。それで新しい理論と観測との間にも何かの端がかけられる可能性があるのでしょうか。どんな思索でも、それは実験によって検証されなくてはなりませんし、またどれほど魅力のある結果にしたところで、それが事実に適合しなければ棄てるより外はないのです。万有引力の新しい理論はどのようにして実験の検証を得られたのでしょうか。この疑問には簡単に答えられます。昔の理論は新しい理論の1つの特殊な極限の場合なのであります。つまり万有引力が比較的に弱い場合には、昔のニュートンの法則は、新しい万有引力の法則へのかなりよい近似を与えるのです。ですから、古典理論を支持するあらゆる観測はやはり一般相対性理論を支持することになります。結局、私たちは、新しい理論の一段高い水準から、古い理論に立ちもどられるのです。
ですから、新しい理論に都合のよいような観測が新たに付加せられないとしても、その説明が古い理論とおなじようにうまく運ばれて、二つの理論のうちのどちらをでも自由に選んでよいというのであったなら、私たちは新しい方をよいと決断しなければならないはずです。新しい理論の方程式は、形式的に見ればよほど複雑でありますが、その仮定は根本的な原理から見て遥かに簡単なのです。絶対時間並びに慣性系というような、二つの恐るべき幽霊も、もはや影を潜めてしまいました。重力質量と慣性質量とが同等であるという手がかりは見のがされてはなりません。万有引力について、ことにそれの距離に対する関係については何の仮定も必要とされないのです。万有引力方程式は構造の法則の形式をもっています。そういう形式は場の理論の偉大な成功があって以来、あらゆる物理法則について要求さえるものなのであります。(下巻pp.116-117 )

Let us suppose, for the moment, that we have succeeded in carrying out consistently the programme of the general relativity theory. But are we not in danger of carrying speculation too far from reality? We know how well the old theory explains astronomical observations. Is there a possibility of constructing a bridge between the new theory and observation? Every speculation must be tested by experiment, and any results, no matter how attractive, must be rejected if they do not fit the facts. How did the new theory of gravitation stand the test of experiment? This question can be answered in one sentence: The old theory is a special limiting case of the new one. If the gravitational forces are comparatively weak, the old Newtonian law turns out to be a good approximation to the new laws of gravitation. Thus all observations which support the classical theory also support the general relativity theory. We regain the old theory from the higher level of the new one.

Even if no additional observation could be quoted in favour of the new theory, if its explanation were only just as good as the old one, given a free choice between the two theories, we should have to decide in favour of the new one. The equations of the new theory are, from the formal point of view, more complicated, but their assumptions are, from the point of view of fundamental principles, much simpler. The two frightening ghosts, absolute time and an inertial system, have disappeared. The clue of the equivalence of gravitational and inertial mass is not overlooked. No assumption about the gravitational forces and their dependence on distance is needed. The gravitational equations have the form of structure laws, the form required of all physical laws since the great achievements of the field theory. (pp.251-252)

物理学と数学的な形式との関係: 

物理学の理論を立てるのには、根本的な思考が最も本質的な役目を演じます。物理学の書物は複雑な数学公式で充たされていますが、どの物理理論にしても、その端緒となるのは観念や思考であって、公式ではありません。思考は、それを実験と比較し得るようにするために、その後に数量的な理論として数学的な形式を取るようにしなければならないのです。(下巻 p.165)

Fundamental ideas play the most essential role in forming a physical theory. Books on physics are full of complicated mathematical formulae. But thought and ideas, not formulae, are the beginning of every physical theory. The ideas must later take the mathematical form of a quantitative theory, to make possible the comparison with experiment.

物理科学とは何か?そして、その実在(reality)との関わりとは?

 科学はまさに法則の集積でもなければ、まとまりのない事実のカタログでもありません。それは人間精神の一つの創造物であって、それが自由に発明した思想や観念を含んでいます。物理学の理論は実在の一つの形象を形作って、それと感覚的印象の広い世界との連関を確立しようとします。ですから私たちの心的構造が正しいかどうかは、理論が果たして、またどのようにしてかような連鎖をつくるかどうかということに帰着するのです。(下巻 p.189)

Science is not just a collection of laws, a catalogue of unrelated facts. It is a creation of the human mind, with its freely invented ideas and concepts. Physical theories try to form a picture of reality and to establish its connection with the wide world of sense impressions. Thus the only justification for our mental structures is whether and in what way our theories form such a link. (p.310)

 物理学の理論の助けを借りて私たちは、観測された事実の迷路を通じて私たちの道を見つけ出し、感覚的印象の世界を秩序立て、かつ理解しようとするのです。私たちの理論的の構成によってこの実在を把握することが可能であるという信念がなくては、また私たちの世界が内的調和をもっているという信念を欠いては、科学はまるであり得ないでしょう。この信念こそは、あらゆる科学的創造に対する動機なのでありますし、またいつになってもそうなのでありましょう。・・・ (下巻 p.192)

With the help of physical theories we try to find our way through the maze of observed facts, to order and understand the world of our sense impressions. We want the observed facts to follow logically from our concept of reality. Without the belief that it is possible to grasp the reality with our theoretical constructions, without the belief in the inner harmony of our world, there could be no science. This belief is and always will remain the fundamental motive for all scientific creation.(p.312)

40年ぶりに読んでみた本書、かなりのインパクトを与えるな! という実感。もっと考えてみなければ、・・・


Post a Comment