益川敏英著「科学にときめく」を読んでみた
October 19, 2010 – 1:08 pm近所の公立図書館で一昨年のノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんの本を見つけた。受賞後1年たって刊行されたもので、ノーベル賞受賞時の講演、その前後に行われた各種の講演、雑誌などへの寄稿文がまとめられたものである。なかなか興味深い内容だった。私が興味深いと感じた部分をメモしておいた。
「科学的とは」どういうことか: この私のブログでも、これまで「科学的」とはどういことを指すかについて多少考えてきた。本書では、大学生向きに書かれた「大学の学びをどうすすめるか」という寄稿文のなかに次のように「科学」というものにたいする益川さんの考えが書かれている:
最近「科学的な○○」といういい方をよく耳にしますが、「科学的」とはどういうことでしょうか。それは客観的な事実にもとづいて、論理的に考えることだと私は思います。「科学的な○○」というハウツーがあるわけではありません。客観的事実をありのままに見て、そのなかに疑問を感じて論理をくみ上げていく。それが「科学」だと私は思います。
そうした思考をみにつけていくうちに、未来を見通す目がやしなわれてきます。どのようにか。いまある自然は社会、また自然や社会にたいする認識は、過去にいろんな過程をへて、今日のものへと発展し、いまある状況になっています。(p.50)
「科学」を見るキーとして「客観的な事実」そして「論理的に考えること」があげられている。このあたり当たり前のことだ。しかし、この一見単純なところを言い続けることは重要と考える。
創造的な方法とは: ノーベル賞受賞が決まった直後に京都大学で学生との対話集会がもたれている。わたしも、この対話集会をYouTubeで見させていただいている。そのときも、なるほどと思った部分であるが、学生が「クリエーティブな方法とはどういうことか」と質問、それに対し次のように答えられている:
「銅鉄主義」という言葉があります。論文を書くときにある人が銅で実験をして成功した。それで鉄にかえて銅で研究することを「銅鉄主義」という言葉で表しています。それをやっちゃいかんとは私は思いません。しかしどういう意識でそれをするかが問題です。「習作」といって、絵画を描くときに、ピカソでも同じような絵をたくさん描きます。そういう意味で、テーマをきわめ尽くすために細部にわたって調べるということは意味があることです。そういう作業を通じて得た自分の知識や感覚を使って本来やるべきことをやる。そしてそれを発表するというkとおがクリエイティブな仕事をするということです。それを常に自分で心がけなくてはならない。(p.58)
学生時代、良く聞いた「銅鉄主義」との対比でクリエイティブな仕事が説明されている。「銅鉄主義」とは、私の理解では「銅で測ったから次は鉄で測ってみよう」という研究スタイルを指すもので、こうした発想で研究を進めると同じ発想、同じ実験手段で元素の数だけ成果を出すことができるという風潮を指すものと思う。多少、上記抜粋の表現は異なるが、同じ意味で使われているのだろう。
ここで言われていること、かなり重要。「そういう作業を通じて得た自分の知識や感覚を使って本来やるべきことをやる。」ということ、研究のあるべき姿、これにつきる。落ちこぼれの私、共感をおぼえる。ひとつだけ、益川先生が書いてないこと「研究する主体の能力」だ。これは最低限必要。これが私にはなかった。
パラダイム論について: 半月前、本ブログ上に、「トーマス・クーン著『科学革命の構造』を読んで見た」を書いた。そこにも書いたが、あまりあからさまには書かなかったが、このパラダイム論なるものが流行したことにかなり困惑した。
そのあたりのこと、本書、かなり正確に指摘されている、と感じた。
パラダイムという言葉を最近よく耳にする。実際に使い易い言葉なので自分でもつい使ってしまうことがあるが、Paradigmという言葉はラテン語で語形変化表のことで例えば四段活用をする動詞を未然、運用・・・・命令と変化させ、それ等(四段活用する)を一杯並べたテーブルを指すらしい。これを知るとパラダイムの使い方が分かる。共通した概念・手法が広く適用できる安定した科学の発展のフェーズ(段階)を指すらしい。学問の方法論としては当然パラダイムの変化がどうして起こり、どのような過程を経て進行するか重要になるが、パラダイム論ではこれらの分析が弱いように見える。それは唯物弁証法的視点が欠けている為だと私は理解している。
パラダイム論が現れる数十年も前に、唯物弁証法に基礎を置いたもっと精緻な理論を我々は知っていた。それは、武谷・坂田による学問の発展の法則「三段階論・自然の階層性の哲学である。・・・(pp.146-147)
研究を進める活力は何か: 科学者が研究を進めるうえでのドライビングフォースというか、研究の動機はなにかということについてさまざまな意見がある。我が国の科学政策に大きな力を持つ吉川弘之は、その著書「テクノロジーと教育のゆくえ」(岩波書店2001年)などのなかで「キュオリシティドリブンではだめ」ということを主張しているように思える。しかし、益川先生、このあたり全くの逆をゆく。
ある講演会で、「理論の研究とか基礎的な研究とかにおいて、どこに達成感を感じるのか」という質問に答えて、次のように述べる:
なぜ素粒子論の研究をするかということなんですが。人によって違うと思います。だけれども、私はそんなことより・・・・不思議じゃないですか。自分の目の前に謎をなげかけられたら、解いてみたくなりますよね、簡単なことでも。
・・・・
そんなことより面白いじゃないですか。自分が誰より先にその解答を知り得た。一番最初に知ったときは、これは俺しかしらない。そんなもんです(笑)。(pp.127-128)
さらに、現在の成果至上主義的な風潮に対し、
すぐに役立つという目先で利益追求したのでは見つからないのが科学なのです。学問の必然性に従った、地道な研究をしてはじめて発見することがあるのです。「速く成果を出せ」というようなことを言ってしまったら元も子もなくなります。ですから、研究者が「面白い」と思うことをベースに研究するころが非常に重要です。
最近は、「競争的資金」といって、研究費を自分でとってこいという流れになっています。研究者が自由に研究できるような研究費がほとんどなくなって、すべて「競争的資金」となっています。「自分は流行に乗らずに落ち着いて勉強する」ということを言っていたのでは研究費はないわけです。いま世界じゅうがそういう動きになっているのは残念です。しかし私は、「そうしたことをしてしまったために科学の発展が遅くなってしまった」となるような時代がかならずくると思っています。(pp.80-81)
と述べ警告を発している。現在の科学技術政策、このあたりを十分に考えなければならないのではないかと思う。
本書のタイトル「科学にときめく」は、出版社の編集部によるものであるかどうか知る由もないが、やはり「科学」に「ときめき」を失ったら進歩はなくなる。そのあたりが、益川先生の主張であるのでは、というのが本書にたいする私の読後感といったところだろう。