多田富雄著「免疫の意味論」を読んでみた

November 24, 2009 – 4:17 pm

前回エントリーを書いたのが11月14日、10日ぶりだ。この間、バタバタしていたが、この「免疫の意味論」を読むのに多くの時間を費やしていた。私にとって、難解な書ではあったが、苦労して読みすすめて得るところが多かったと思っている。私の力量では、この本の内容を紹介するというのは無理、というのが実感。読み終えたという記録だけでも残しておくことにした。

本書「免疫の意味論」は、私の本棚に積みかさねられているなかでは、比較的、新しいものだ。1993年4月に第1刷が青土社から刊行され、わたしの手元にあるのは2004年7月の第75刷発行となっている。

著者のあとがきによれば、本書は、「雑誌『現代思想』に十二回にわたって連載されたものを集めた一冊」であり、「系統だったものではないが、現代免疫学の重要な問題には一応ふれたつもりである」とされている。免疫学者として高名な著者が、一般向けに、現代免疫学の重要な問題を解説してくれている。


実に難解、というのが本書を読んだ私の感想だ。この難解さは、免疫学という分野に対し、私が全くの門外漢ということもあるが、この免疫という現象には、多数の「役者」が登場し、それぞれが複雑に絡み合っていることにあるのでは、と感じた。

私の場合、夫々の「役者」(概念、遺伝子などなど)についてメモをとり、それら「役者」の役割をひとつずつ確認しながら読み進めることで、なんとか読み通すことができた。メモをとりながら本を読むというのは、この数年来なかったことだ。

読み終えた今、苦労したかいがあり、現代免疫学の姿がおぼろげながら見えてきたように感じている。

本書の内容あるいは著者の意図は、はしがきの次の文でまとめられるだろう。(以下、抜粋):

 伝染病から身を守るしくみという程度に考えられてきた免疫が、分子と遺伝子の動きで生命を理解しようとする生命科学の中心に位置するようになったのは比較的最近のことである。そればかりか、もっと巨視的な生命観にも数々の問題を投げかけている。免疫は、病原性の微生物のみならず、あらゆる「自己でないもの」から「自己」を区別し、個体のアイデンティティを決定する。還元主義的生命科学がしばしば見失っている、個体の生命というものを理解するひとつの入り口である。臓器移植、アレルギー、エイズなどの社会的問題もまた、身体的「自己」の、「非自己」との関わりの問題として考えなければならない。
 ところが、もう一歩踏み込んで、免疫学的「自己」とは何か、「非自己」とは何か、と問いつめてみると、明快な答えはでてこない。分子論的解明が進めば進むほど、「自己」と「非自己」の境界は曖昧になってくる。しかし、このファジーな「自己」は、それでも一応連続した行動様式を維持し、「非自己」との間で入りくんだ相互関係を保っている。その成り立ち、行為、崩壊の様相を探ってゆくことは、同じくファジーな固体の生命を理解する手掛かりになると思われる。(p.8)

実に、学ぶことの多い書であった。


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