東京五輪のイメージダウンで、我が日本も「普通の国」に!

September 5, 2015 – 6:13 pm

メーン会場の新国立競技場建設計画が白紙見直しに驚いていたら、今度は五輪エンブレムの撤回ということになった。これで東京五輪のイメージダウンは避けられない、とのことだ。
しかし、だ。これって、わが日本国が「普通の国」になったことの証。何も悲観することなんてないのではないか、なんて思ったりする。

何故こんな事態に?  
まず、新国立競技場建設計画の白紙見直しについて
建設費が2,500億円なんて高すぎるという話のようだが、原因はそれだけではないように思う。建設計画に向けての手続きが不透明で国民不在。

全くの個人的な感想だが、新国立競技場の建設をいいことに、世のボスと呼ばれる人たちが、それぞれの主張を展開。事務局が、どのボスにもいい顔をしようと、要求を全て取り込もうとしたのが、今回の騒ぎの原因。

次に、エンブレムの撤回について
デザイン業界のことについてはよくわからないのだが、どんな優れたデザインでも、全くの「無」から「有」が生まれるなんてことはあり得ない。意識するか、無意識かは別にして、参考にした、あるいは影響を受けたデザインが過去にあるのは当然だ。

むしろ、今回の騒ぎは、エンブレム採用にいたるコンペティションから採用に至るプロセスに問題があったのではないか。

素人の単なる感想に過ぎないのだが、選考する側と選考される側が、結局のところ仲間内、同業者というところに問題があるのじゃないか?なんて思ってしまう。

前回1964年の東京五輪のときはどうだったのか?
五輪のための国立競技場を含む建設ラッシュ、そしてエンブレムの選定、どちらについても、前回1964年の東京五輪のときには、何の問題もなかったように感じる。

前回の五輪が開催されたのは、私が16歳のときだ。五輪に向けての建設事業とか、エンブレムの選定がすんなりいったかどうかは、残念ながら記憶にない。しかし、一つ言えることは、国を挙げての大イベント。敗戦国日本が復興するための威信がかかっていたように思う。

多少の異議、反対なんて全然問題にならなかった。

何の問題もなかったなんて思えない。今回以上に、ボスたちが暗躍したに違いない。しかし、どんな問題も覆い隠すだけの「国の威信」とやらがあったのでは、と思う。

考えてみるといい。大急ぎで作った首都高速道路は、日本の中心、日本橋界隈の風景を台無しにするような、ちょっと考えてみると、とんでもない拙速な大工事だったのではないか。「行け行けドンドン」で、オリンピック開催に向けて一直線だったに違いない。

今回、2020年五輪については、「異議申し立て」をする国民が存在した。これこそが、2020年と1964年の最も大きな違いなのではないか。

成熟した国になった証として捉えたいなんて、今回の騒ぎについての感想を述べるのは不穏当かもしれない。が、しかし。一連の流れを見ると、どうしてもそのように感じてしまう。

新国立競技場のデザインコンペの審査委員長安藤忠雄曰く、「そんなわけで、私も国民の一人としてお願いする。これはできます。ゼネコンも、金のためじゃなくて日本のためにやっている。そういう風にも言ってもらわないと。」なんて・・・

この「ゼネコンも、お国のために」なんていうのを聞くと、1964年五輪には成立した話を、2020年五輪に向けてやるのはいかがなものか、なんて思ってしまう。

この半世紀で、我が国、日本も、やっと「普通の国」になってきたのではないか、なんて思った次第。

まだまだ、我が国捨てたものではないじゃないか!


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