むかし「しがらみ」、いま「きずな」
December 25, 2014 – 3:34 pm最近、「絆(きずな)」という言葉を頻繁に聞く。特に、東日本大地震からの復興を願うスローガンのなかに、この「絆(きずな)」というのをよく見る。
正直にいうと、この「絆(きずな)」ということば、私には、しっくりこない。
12月7日付の日経に、「『憧れ』はネットで消えた」というタイトルで、難波功士・関西学院大教にによる興味深い文をみつけた。以下のようなものだ:
いま「きずな」と呼ばれるものは、昔は「しがらみ」でした。
高卒後は家族や友人をいったん断ち切り、東京で人間関係を一からつくり直したい若者が大勢いました。
この文を読んで、なるほど、そういうことだったのかと、納得してしまった。
私自身、いわゆる「団塊の世代」だ。高校を卒業し、東京の大学に入学したとき東京の生活に故郷の「しがらみ」から解放され、一種の「自由」を感じたような気分を持ったのを記憶している。難波教授のいう「人間関係を一から作り直したい若者」のひとりだったのかもしれない。
大学での生活を終え(実に大学院生活も含めると10年もの学生生活を送った)、東京を離れ、ある研究機関に就職、その後40数余年を経た。
今ふりかえってみて、果たして、私は高校を卒業し、故郷にあったしがらみを断ち切り、「新たな人間関係を一から作り直す」ことができたのかどうかと考えてみた。残念ながら、ほぼ50年前に、故郷を離れるときに断ち切った「しがらみ」以上の人間関係を作ることはできなかったような気がする。私の多少「偏屈」な性格によるところが多いのかもしれないが、程度の差をあるものの同年代の多くが私と同様な想いをもつのではないかと想像する。
そこで登場するのが、「絆(きずな)」という言葉ではないか。
20年以上の経済の停滞、そして東日本大震災という未曽有の大災害に出くわした今、わが身を振り返えってみると、断ち切ったはずの「しがらみ」のなかにあった温もりを求めていることに気付く。「絆(きずな)」というあらたな言葉にかわった「しがらみ」を求めているのである。
実は、この「絆(きずな)」のなかに、かって不自由を感じた「しがらみ」と同質のものがあることに、うすうす気付いていた。これにより、「絆(きずな」なる言葉に親しみを感じることができない理由を見たような気がする。
やっぱり、「絆(きずな)」とか「しがらみ」というのより、「自由」というのが好きだな。
雑文。