早期退職して10年が経過

July 2, 2016 – 12:48 am

10年前の今日、7月1日に早期退職した。

それまでの「安定」した給与生活者「会社員」の世界から「無職」と呼ばれるそれに移行したのだ。

定年に伴い退職を迎えるいわゆる「定年退職」ではなく、定年まで2年半を残した早期退職であった。世間的な見方、言い方では「落ちこぼれ」たのである。

それなりの見通しを持って早期退職したつもりだったが、当時、まだ中学生の娘を抱えての退職は、自分自身だけでなく、妻、娘に大きな不安を与えたに違いない。

それから10年経った。

今、そうした不安を払拭し、乗り切ることができたように思っている。今後も人並みの老後を送ることができるような希望もうまれてきたとの手ごたえもある。

この10年の「無職」生活を振り返り、今の「思い」をメモしておいた。

早期退職のいきさつ
早期退職したいきさつについては、このブログの最初のエントリー「ブログの開設とその動機」に簡単に纏めている。

この「いきさつ」のなかには記していないことであるが、これを書きながら、退職願いを出すに至った経緯、退職願いがなかなか受理されなかったことなど、さまざまなことが思い出される。今だから言えるが、病気療養から職場に復帰、そして新しい異なる職場への配転の過程では、主観的にはかなり不愉快な思いをした、という記憶がある。

病気療養から職場に復帰するにあたって、最初からフルタイムでの勤務に(体力的には)無理があるので、ハーフタイム(午前のみの仕事など)から始められるように配慮してもらえるみちはないのか、所属していた古くから付き合いのあった組織の幹部にお願いした。その返答、労災を含む労務管理上の問題なので「事務方に相談してください」なんていういかにも官僚的な対応しかされずがっかりしたことを思い出す。ま、当然といえば当然の返答ではあったが、なんら検討すら行なおうとしない対応に組織というもの厳しさを改めて知ることになった。

新しい職場に配転されたのであるが、ここでは、定年退職後に嘱託として勤務している職員とふたりの部屋に机が配置されていた。先輩面をし傲慢な態度をとる嘱託職員に気をつかいながら仕事をすることへの矛盾、職場組織の長による仕事(職位、権限、責任)上の取り決めを反故にされてしまうことへの疑問、もっと言うならその職場での「お荷物的」扱い(少なくとも主観的にはそうした扱い)を受け、平均余命1年程度ともいわれる不安、健康状態のなかで、新たな職場が、命を賭して働くだけのものではないとの思いから退職願いを提出するに至った。

退職願いを提出したものの、これがなかなか受理されなかった。2か月前に退職を願いでたのであるが、これを最初は承認していた職場組織の長は、人事担当セクションから再考させるようにと指示されたようで、何度も私に翻意を迫ってきた。挙句の果てに「職場にでて仕事しなくても、出勤したことにするから、退職することは取り消してくれ」なんて滅茶苦茶な話をされたこともあった。「そんなこと可能ですか?」と言うと、「個人情報は守られるから、私が黙っていれば出勤したとかしなかったなどだれもわかることはない」といったコンプライアンス的にみてとんでもない驚くようなことを言われたことを記憶している。

こうした滅茶苦茶な幹部が牛耳る組織から早期に退職できたことは、今考えて、正しい選択であったと思う。

あれこれあったが、幸い、退職の1週間前に人事担当者の助けにより退職手続きを進めることができ、なんとか退職することができた。とはいうものの、退職に際しての元同僚などに挨拶する時間的な余裕がなく「不義理」をしてしまうことになった。

正直なところ、追われるように退職したという印象だ。いずれにせよ、中途退職というのは日本型組織のなかでは、あまり褒められたものではなさそうだ。

以上、書くべきではないものかもしれないが、10年ぶりの節目としてここに書き残しておくことにした。

「無職」になるということ: 
中途の退職だろうと満期の定年退職であろうと、いずれも「無職」ということになる。

これを契機に、さまざまな点で生活が一変する。ひとことで言うと「普通ではない人」ということになる。

それまで社会との繋がりは、職場とのつながりのなかにあったのであるが、その職場がなくなると、突然、「社会」とのつながりもなくなるのである。多少、極論を述べているように感じるかもしれないが、突然、社会から孤立した存在になってしまうのである。

家族にとっても、私が「無職」ということになると、いろいろなことが起きる。私の娘にも、想像しなかったことが起きた。

娘は、当時、中学2年生になったばかりだった。学級担任から、クラス全員に、父親の職について質問されたという。父親の仕事の形態について挙手で答えるように求められることがあったという。○○関係の会社勤務、自営業、その他といった具合に、である。最後に、その担任主任、それぞれの人数を集計し、「一人手を挙げなかったやつがいる!誰だ!」と怒鳴ったようだ。

わが娘、「私です」と手をあげ、「私のお父さんは会社をやめて仕事をしていません」と説明したという。さすがに、学級担任も驚いたようで皆の前でこうした質問をしたことを詫びたという。

この話を聞き、「普通でなくなること」の大変さが家族にも波及することに、多少、娘への申しわけなさを感じてしまった。

無収入の生活
無職であると、当然のことながら、退職後の一時期、雇用保険の支給はあるけども収入はなくなる。無収入になるのである。

無収入だと自分の銀行の通帳の「お預かり金額」の項は真っ白で「お支払いの金額」の項だけに数字が印字されてゆく。実に、多少誇張した言い方になるのかもしれないが、この事態は、これまで味わったことのない恐怖の体験なのである。たとえ退職金などを含め多少の金融資産があったとしても、家計上の収支がバランスしておらず、これが視覚的にもはっきりとしてくるというのは大変なことなのである。ましてや、年金が支給されるまでの2年半にもわたって、こうした状態が続くというのを思ってぞっとした記憶がある。

ただ、中途退職したときから年金が支給されるまでの2年半の貧窮生活は、多少乱暴ないいかたではあるが、その後迎える年金生活に先立って、生活をshrinkさせる効果があったように思っている。年金生活を送るには、多かれすくなかれ生活をshrinkさせることが必要だ。無収入の生活は、年金生活の覚悟を持って対処するうえでの貴重な機会になった。

多いとは言えない年金額ではあるが、shrinkした生活を送る私にとっては、生活を維持するうえでは十分なものだ。いろいろ課題を指摘されるのではあるが、社会保障制度の恩恵を受けさせていただいている。

本当に、有り難いことだ。

今後の充実した年金生活をめざして
中途退職したときに中学2年生だった娘も、昨年3月には大学を卒業することができ、現在は、自宅から勤務できる職場に就職している。今、話題の奨学金という名の教育ローンのお世話にもならず、一応の教育を受けさせることができた。

退職時には、なにがなんでも、娘には人並みの教育だけは受けさせてやることが親の責任と思っていたが、なんとかその責任も果たすことができたようだ。

これからは自分を中心に生活を組み立ててもよい時期になったような気分だ。

以上、この10年を振り返って、なんとかやり遂げることができたのではと自画自賛しているところだ。

子供の教育費支出も終了した。そのこともあり、多少の余裕ができたように思う。この10年の節目に合わせてわが娘と一緒に、スペイン旅行にでかけてきた。1週間前に帰国したところだ。

スペインでは、アンダルシア地方を述べ1000キロ近い距離にわたってドライブし、満喫してきた。実に楽しかった。この旅を通じて、まだまだ、自分にも相応の体力・気力が残っていることを確認することができた。

今後も、体力・気力維持に向け鍛錬をし、長年にわたって楽しい年金生活を送ってゆきたい。うまくゆけば、またヨーロッパ諸国のドライブ旅行を計画したいと思っている。まず、体力の鍛錬をつまなければと思っているところだ。


  1. One Response to “早期退職して10年が経過”

  2. スペイン旅行楽しんで来られたようですね、今後ともお元気でご活躍を、30年前を思い出しますね。

    By ヤマザキカズヒコ on Jul 5, 2016

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