「ガモフ全集(全12巻)」を読み終えて

May 25, 2009 – 4:22 pm

もう1年くらい前から「ガモフ全集」(白揚社)を少しずつ読んでいた。やっと、全12巻を読み終えた。実に40年も昔、私の学生時代に購入し、いつかは読もうと思っていたものをやっと読み終えたというところだ。全巻、読み終えて、自然科学を学ぶことの意味、そして技術文明のありかたについていろいろ考えさせられた。

全巻読み終えた感想をひとことでいうなら、以前、このブログで紹介した「物理のない化学はなく、物理・化学のない生物・地学はない」という日本学術会議の報告「科学・技術を文化として見る気風を醸成するために」の一節を再確認させてくれるものだった、といったところだろう。自然科学に含まれる諸分野そしてその発展を、ひとつの連続した物語として語ってくれている。自然科学とは何かを教えてくれたように思う。

この全集を読み進めるなかで、なるほどと思わせるところ、おや?と思わせるところなどさまざまな場面に出くわした。そのひとつひとつについて感想(評論するなどとは自分を省みて恥ずかしくて言えない)を折にふれ、今後、このブログのなかに書いて行くことにしようと思う。このエントリー、そのさわりといったところだ。

全集のなかで最も好きなのは、最後の第12巻「トムキンスの最後の冒険」だ。この巻を読み終えたばかりで、最も印象として残っているということもあるだろう。しかし、それだけでなく、この最終巻に何か、「自然科学そして技術文明とは何か」についてのガモフのメッセージが含まれているように感じたからだ。

ガモフ全集のなかで、最も有名なのは、おそらく第一巻の「不思議の国のトムキンス」だろう。「松岡正剛の千夜千冊」のなかでも紹介されている。私と同年代で物理学を学んだものは、物理学の面白さをこの書を通じて知ったひとも多かったのではと思う。

しかし、私が大学を卒業し40年近くたった今日、「科学離れ」と呼ばれる現象が起きている。おそらく「不思議の国のトムキンス」で得られる物理学を学ぶ面白さを伝えるだけでは、この「科学離れ」という流れをたちきることはできないだろう。科学技術の発展に対する、ある種の「疑問」(いろいろな意味で)が、その背景にあるからだ。自然科学を学ぶ意味の再構築が求められている。これには、自然科学、技術文明の進化・進歩についての、より深い考察が必要となるに違いない。そのあたりが「トムキンスの最後の冒険」に書かれているような気がする。

第12巻「トムキンスの最後の冒険」(ジョージ・ガモフ、マルティナス・イチャス著、鎮目泰夫、林一訳、白揚社 1969年5月)は(私の理解では)、この種の解説書としてはガモフの最後の作品ではないかと思う。それもあってか、この巻には、人類にとっての(自然)科学の意味にかかわるガモフの見解が述べられているように感じる。自然科学そして技術文明の進歩のすばらしさとそれから惹き起こされる不幸についてだ。ここには、手放しの「科学礼賛」の態度ではないなにかがあるように思う。この巻の終わり、「第五話 湖上の夢」のなかで、トムキンスの息子ウィルフレッドに、「他の惑星の生命体と通信をすることの可能性とその夢」とあわせて「技術文明の行く末」について語らせている。ここでガモフは自らがイメージする技術文明の行く末に対する危惧そして警告を述べているのではないかと思うのだ。(以下、かなり長いが抜粋)

「宇宙人に対して、どういうことについて話したらよいのかね?」
「よいご質問です。私たちが交信を望むのは、私たちよりも何百年も進んだ文明からなる何かを聞きたいからです。したがって、ある意味では、私たちは信じがたいほど遠い未来へゆけるかもしれないのです。しかも、ラジオ受信機を用いるだけです。これは『タイム・マシン』を創造したときのウェルズの空想をはるかにしのいでいます。」
「どうも驚いた話だね」とトムキンス氏はいった。「そんなら、いったいおまえは、人間がやがて別の太陽系にいる知的生物と交信できるようになると、本気で信じているのかね。」
「そうです。ただし、ある重要な留保をつけた上でのことですが。銀河系には生命が豊富に存在していること、そしてそれが知性に向かって進化していることを、私は確信しています。しかし問題なのは、そういう進化が進んだときに、いったいなにが起こるか、ということです。もし、技術文明がふつう数百万年つづくのだとすれば、このような文明は宇宙にたくさん存在することになりますので、それらのあいだには交信が確立されるにちがいない、と私は思っています。しかし、おそらく、本当はそうではないでしょう。」
・・・・・・
「技術文明が必然的に自己破壊の種をはらむものであるかどうか、これが基本的な疑問です。そうかもしれないということを知るのは、むずかしくはありません。私たちの困難は、環境をますます急速に変革する方法を発見したにもかかわらず、私たちの心がそれらの変化に適応できないでいる、ということです。もし私たちが適応できなければ、私たちはもちろん、恐竜の運命をたどることになるでしょう。私の友人の天文学者がよく語っていたことなのですが、技術文明への駆動力は競争であり、それは究極的には破壊へゆきつきますし、また、安楽な生活を求める欲望は究極的には肉体的および遺伝的な退化をもたらします。この駆動力が有用性を失ったとき、それを投げ捨てることができるならば、私たちは生き残れるでしょう。」(
「もし技術文明が短い寿命しか持たないものであるなら、それらのあいだの交信の望みはとぼしいのです。なぜなら、そういう文明は同一時期には数多く存在しないでしょうから。したがって、それを近くに期待することはできません。おそらく互いに数千光年も離れているでしょう。したがって、たとえそれらが、たがいに位置を確認できたとしても、対話通信は不可能でしょう。通信が光速で往復する数千年のあいだに、両方の文明とも絶滅してしまうだろうからです。」(pp.225-227)

技術文明に対するこうした見方、ガモフの解説書のなかでは、(私の気がついた限りでは)この最後の部分だけに見られるものだ。このあたり、今後、もう少し考えてみることにしよう。

とにかく、全集12巻を読み終えたということでこれを書いた。全集を通じて、興味深く思った部分は数多くある。冒頭にも述べたように、それらを折りにふれとりあげながら、今後、いろいろ考えてみたい。


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