「原発災害とアカデミズム 福島大・東大からの問いかけと行動」を読んでみた
May 29, 2013 – 10:00 am福島第一事故の発生から2年が経過した。原発事故の発生以来、さまざまな視点・立場からこの原発事故が語られている。本書は、原発事故に対し、学者・研究者が、いかに向き合ってきたか。そして、アカデミズムが本来果たすべき責務を果たすことができたかどうか。福島大、東大の研究者たちが、それを、検証しようとしたひとつの記録(論文集といってよいか?)といってよい。
本書全体を通じて、原発事故による放射能汚染そしてそれによる放射線被曝という状況は、どのように考え対処すべきなのか、非常にラディカルな視点を提供する。原発災害に対する「科学」の立ち位置を鋭く検証する。深く考えさせられた。印象深かったところをメモしておいた。
本書の視点: 著者のひとり島薗進は、本書の「はじめに」に以下のように記す:
原発災害は、『学問は何か』『科学とは何か』を問い直すことを、アカデミズムに生きる私たちに強いた。危機に直面することにより、学術という営みの核心になにがあるのかという問いにあらためて出会ったと言えるだろう。本書はこの重い難問に挑んだ者たちのとりあえずの解答集といってよいかもしれない。(p.8)
本書がこの「重い難問」に対する「解答集」になっているかどうかは、私にはなんとも言えない。しかし、大地震そして原発事故という未曾有の経験をしたなかで、「科学」そして「知」というものを問い直す契機を提供していることは確かだ。
原発災害に科学・技術の専門家は国民を援けることができたか: 原発事故とその後の対処のなかで、「科学技術」に対する信頼が著しく低下してしまったという。島薗氏は、独立行政法人日本学術振興財団のウェブジャーナル「サイエンスポータル編集ニュース」を引用し、科学技術の専門家の放射線状況への対処が社会的信頼を損なわせていることを以下のように指摘する。
白書(筆者注:2012年版科学技術白書)は科学者・技術者の信頼低下の事実を率直に認めている。この事実から何を学ぶべきか。記事はこう続ける。「こうした結果について白書は「国民の科学者・技術者に対する信頼感が低下し、研究開発の方向性の決定を専門家のみに任せておけないと考えている国民が激増しているのに比して、専門家一般はそこまで深刻に捉えていないように見える」と指摘している」。
気になるのは「専門家一般はそこまで深刻に捉えていないように見える」という事態である。「サイエンスポータル編集ニュース」の筆者も同じように感じており、だからこそ短い記事にこの箇所をひいたのだろう。
・・・神谷研二氏を例に放射線の健康影響の専門家について見てきたことは「専門家一般はそこまで深刻に捉えていないように見える」という事態の好例だろう。彼らは原発事故以前から行われてきた「安全・安心」教育の路線をそのまま継承し、「不安をなくす」ことを至上命題とする放射線汚染の情報を行ってきた。
このような情報発信は、放射線量の多い地域から避難したり、線量が多いと疑われる食品を避けたりすることを許容しようとしない社会環境を形成する基盤となってきた。このような学術の専門家が抑圧的な役割を果たす事態はどうして生じたのだろうか。また、こうした特定領域の専門家の情報提示の危うさに気づかず、放射線による被曝の危険は無視できるほど小さいという論説を支持する科学者・研究者・ジャーナリストが少なくないのはどういうわけだろうか。(pp.52-53)
本ブログの前エントリー「伊藤守著『テレビは原発事故をどう伝えたのか』を読んでみた」で、福島第一の事故発生時の原子力のいわゆる「専門家」の助言・解説が国民に混乱をもたらした事実をみた。本書の島薗進の議論は、さらに一歩踏み込んで、「『安全・安心』教育の路線」が国民がとるべき被曝の低減努力を「許容しようとしない社会環境を形成する基盤」となってきたと指摘する。本書全体を通じて、「安全・安心」をベースとするリスクコミュニケーションが何をもたらしたのか、その問題点を指摘する。
放射線被曝を正しく怖がる?: 福島第一原発事故のあと、テレビのニュース番組のなかで私の顔見知りが、インタビューに答えて、「放射線被曝を正しく怖がることが大切」と話しているのを見た。ニュースを見る限り、このかた、退職後、近所の原子力関連のPR館に勤務し、その運営に携わっているようだ。これを見て、正直、驚いた。このかた、放射線の健康影響についての専門家でもなんでもない。原子力関連の事業所で長年の勤務するなかで身につけた放射線に対する一般的な認識がこれを言わせたのか?
「正しく怖がる」というのはどういうことか?原発事故が発生する以前から、我が国で放射線を扱かう事業所では、放射線・放射能は「放射線障害防止法」に基づき管理されている。ここで示されていた被曝限度を尊重することこそが放射線被曝を「正しく怖がる」ことの出発点であったはずだ。原子力関連の事業所で長年勤務した経験があれば、当然、そうであるはずだ。しかし、そうではなかった。
押川正毅(東京大学物性研究所教授)は次のように指摘する:
2011年3月11日の東日本大震災に引き続く原発災害により、東日本の広範な地域に放射能汚染が広がっている。このような状況で、放射能汚染の影響を「正しく怖がろう」という言説が盛んに流布されている。正しいことはよいことであるはずなので、「正しく怖がろう」というスローガンには、一見何も問題がないかのように見える。ところが、実際にはこのスローガンは多くの場合、放射能汚染を憂慮し対策を求める市民に対して「放射能汚染を『過度に』気にするのは間違っている」というメッセージとして用いられているようである。(p.188)
この「正しく怖がろう」というスローガン、日本学術会議のメンバーを中心に流布されたようである。上述したPR館勤務の顔見知りは、こうしたスローガンに影響されたのであろう。本書の立場は、こうした「専門家」の言説を鋭く批判している。
早川教授の「毒米」発言: 群馬大学の火山学の専門家、早川由紀夫教授は、福島第一原発から放出された放射性物質の流れを「早川マップ」としていちはやく公表した。「このマップは福島原発事故のもたらした放射能汚染の全体像を把握するのに便利であり、多くの人々に事態の深刻さを伝える上で、重要な役割を果たしている(p.234) 」。私自身、事故後、このマップを参考にさせてもらった記憶がある。
この早川由紀夫教授の発信したツイッターが物議を醸したことは有名だ。このツイッター発言により群馬大学は彼を処分した。この事件について安富歩(東京大学東洋文化研究所教授)は、早川教授を支持する立場から発言する。
早川教授のツイッター発言の有名なものとして次のふたつの発言を中心に議論が展開されている。以下、引用されている「早川発言」そのまま転載:
「セシウムまみれの干し草を牛に与えて毒牛をつくる行為も、セシウムまみれの水田で稲を育てて毒米つくる行為も、サリンつくったオウム信者と同じことをしてる。日本社会に向けて弾を打ってる。」– 2011年7月11日(https://twitter.com/HayakawaYukio/status/90330839468097537)
「この事実が広く知られているのにもかかわらず、引っ越さない親は、子どもに毎日たばこをひと箱与えて子育てしたのと同等だ。そのような娘はわが家の嫁にもらうわけにはいかないとのたまうがんこ親父に私はなりそうだ。」(https://twitter.com/HayakawaYukio/status/62312847274811392)
なんとも、すごい発言だ。しかし、安富歩の「解説」を見ると、このツイッター発言の重い意味を確認することになる。アカデミアのありかた、そしてその社会的役割を教えられたような気になる。
安富歩は次のように書いて、この論を終える:
・・大学は、世間とは一線を画し、論理や事実を基盤として判断し、行動すべきものであり、そのような付託を社会から受けているはずの機関だからである。学問の自由は、学者は好き勝手にしてよろしい、という意味ではない。それは、学者が、世間に引きずられて、真理の探究を怠ることがあってはならない、という責務と共に与えられた特権である。
早川由紀夫教授の発言は、本稿で見たように、世間的バランス感覚は欠いていても、学問的な側面から見て、十分に議論に堪える内容を持っているのであり、学問の自由によって守られるべきものである。言うまでもないが、学術雑誌ではなくツイッターだからといって、勝手にやったこと、と判断してはならない。発言はあくまで内容で判断されるべきである。
今からでも遅くはないので、群馬大学は処分を撤回すべきである。それが日本の学問を再生する第一歩となる。(p.253)
なんとも、私が忘れていた「青臭い」議論ではないか。心が洗われる。
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