影浦峡著「3.11後の放射能「安全」報道を読み解く」を読んでみた

June 30, 2013 – 1:54 pm

福島第一原発事故により東日本一帯が「放射能まみれ」になった。そうした状況のなか、報道メディアを通じ、放射能の汚染と健康被害の関係についてさまざまな情報が流された。あの混乱した状況のなかで、我々の関心は自からが判断・行動する上で必要な「確かで正確な」情報をいかに見極め、そして得るかということであった。

本書は、事故発生から1,2ヶ月間にわたる報道内容を、メディアを扱う専門家の目から分析し、その問題点を明らかにしようとしたものだ。

本書を読み終え、感想を一言、といきたいところだが、どうも釈然としない印象が残ったというのが正直なところだ。

一応読み終えたということで、少しばかり、本書とのかかわりで考えたことをメモしておいた。

本書の立ち位置: 本書の著者 影浦峡は、東京大学大学院教育学研究科教授、専門は情報媒体論、言語論、言語情報処理と、裏表紙に紹介されている。「あとがき」によると、「本書は、2011年4月にブログ上で公開した一連の『社会情報リテラシー講座』を全面的に改稿し、一冊にまとめたものです。」とされている。

本書は表題にも謳われているように「放射能『安全』報道」について扱うものであるが、上述の経歴からもわかるとおり、著者は放射能に関わる技術的な知識については「素人」だという。あえてこの放射能の問題を論じることになったきっかけは次のように述べられている。

原子力発電所についても放射能の危険性についても素人であり、言語とメディアのかなり形式的な分析を一応の専門としている筆者に知人たちが連絡してきたのは、彼ら彼女らの知り合いの範囲では、メディアを読み解くことに最も専門的な知識を持っているのが私だと考えたことだったのでしょう(p.178)

「放射能まみれ」になった環境下で、メディアの専門家である筆者に対し錯綜する報道を「読み解く」術が期待された、ということが本書執筆の契機になったということのようだ。

分析の枠組み: 報道内容を読み解くための枠組みが、本書のはじめのほうに示されている。そうした枠組みの必要について、つぎのように述べられる。

質的に異なるレベルの話が混在している記事を的確に読み解くためには、基本的なレベルを整理し、把握しておくことが有効です。放射能をめぐる報道を読み解いて「安全」を考えるために、次の5つを区別しておくと便利(p.16)

なるほど、と思う。

基本的なレベルとして、次の5つのレベルが示されている。

0. だれにとっても変わらない記述
1. 科学的な知見(「専門家」による「科学的」な知見や見解)
2. 社会的な見解(法律や基準など:社会的に合意されたり議論される見解)
3. 個人的な判断(安全か危険か:状況や対象、行為に関する個人の判断や見解)
4. 個人の心理的な状態(安心か不安か)

この枠組みを用いて事故直後の報道が吟味される。この種の分析に接したことのない筆者にとっては、本書から教えられること多と感じた。

本書における分析結果をまとめてしまうのは、私の力量からいって、いかがかとは思うのであるが、あえてまとめてしまうと、

事故発生から1,2か月間の「放射能『安全』報道」が「質的に異なるレベル」の話をごっちゃに扱かい、結果、放射性被ばくの健康影響を「過小」に扱っている

といったあたりのような気がする。

本書で多少気になったこと; 本書、全体を通じて、学ぶところ多と感じたのであるが、放射線の健康影響について、多少考えてみたことのある筆者にとって、気になったところがないとはいえない。以下のようなところだ。

  • 内部被曝の説明について: 本書の第3章で、放射線被曝に関わる基本的な概念について吟味している。このうち、「内部被曝」の説明がどうも不正確な印象を受けてしまった。本書の「3.2被ばくのパターン」での内部被曝に関わる記述は次のようになっている。

    内部被曝:汚染された食物を食べたり水を飲んだり(経口摂取)、あるいは呼吸することで(吸入摂取)、放射性物質は体内に取り込まれます。体内に取り込まれた放射性物質により体の内側から被曝するのが内部被曝です。この場合、放射性物質が体外に排出されず、また放射線を出し続ける限り、被曝は続きます。内部被曝の影響は全身にだけでなく、放射性物質を取り込んだ特定の部位に集中するため、比較的低い放射線量でも、重要な体組織を大きく傷つける可能性があるといわれています。取り込んだ放射性物質が体内のどこに特に蓄積されるかは、物質によっても異なります。ヨウ素131は甲状腺にたまりやすく、特に子どもに甲状腺癌を引き起こすことが知られています。セシウム137は全身の筋組織に、ストロンチウム90は骨組織に蓄積します。(p.43)

    このなかで気になったのは、「比較的低い放射線量でも、重要な体組織を大きく傷つける可能性があるといわれています」という部分だ。

    本書で扱う「放射線量」について、その単位は「シーベルト」とされている。すでに、「放射線量」は健康影響を表現するものになっているはずだ。上述の記述では、「放射線量」が健康影響を表現するのに不適切なものになってしまう。

    ひょっとして、ここで扱う「放射線量」はエネルギーの吸収を表現するグレイのほうか?そうだと、多少つじつまがあう・・・?

  • ICRP とECRRについて: 本書を読み進み、おわりの7章、特に「7.3 安全と社会」になると、それまでとはトーンが異なったような印象を受けてしまう。突然、ICRPとECRRの比較という話がでてくる。どうも、私にとっては釈然としない議論だ。多少長くなってしまうが、その部分を以下に引用する:

    個人の安全を考える際に、同時に何が考えられるべきかは、倫理的な判断にも関わってきます。例えば、ECRRのモデルは、ICRPのモデルを科学的に批判するだけでなく、倫理的にも異なる立場とをとっています。ICRPのモデルは、基本的に、功利的主義的な立場に立ち、社会的な便益と個人のリスクとのバランスを考慮します。この考え方は、ICRP主委員会委員で放射線生物学を専門とする京都大学名誉教授丹羽太貫氏の、「低線量被ばくをどこまで防ぐかは、費用や社会的影響を考慮して考えなければならない」という言葉に典型的に現れています。これに対してECRRは、被曝については「ジョン・ロールズの正義論のように権利を重視する哲学、そして世界人権宣言に基づく考え方」が適用されるべきであり、社会的な便益の名のものとで個人に生存のリスクを負わせることは認められないと考えます。
    ECRRの立場に立てば、「安全」以外の観点から被曝許容量を引き上げることは、倫理的に考慮されるべきでないことになります。独立した判断を行うことができ、自分については責任を取ることができる大人が、他者や社会の利益に対するまったく個人としての考慮から、一定の危険を自ら引き受けることはあり得るかもしれません。けれども、社会的な便益の観点から、同じ行動を他人に押し付けることは許容できないことになります。一方、ICRPの立場に立てば、政府が緊急時の個人の被曝許容量を決める際に、社会的な便益を考慮して個人にリスクを負わせることも考えられることになります。(p.166)

    私の立場をまずはっきりしておいたほうがいい。私はECRRの被ばくモデル、特にECRRの内部被ばくモデルについては違和感を持っている。そのあたりについては、本ブログのふたつのエントリー、「松井英介著「見えない恐怖 放射線内部被曝」を読んでみた」「土井里紗著 「放射能に負けない体の作り方」を読んでみた」で触れている。このあたり、上述の本書の「内部被曝」についての説明の曖昧さと無関係でないような印象を受ける。

    さて、私の立場はそれはそれとして、ICRPとECRRの相違を議論する際に、ICRPのモデルを京都大学名誉教授丹羽太貫の「低線量被ばくをどこまで防ぐかは、費用や社会的影響を考慮して考えなければならない」という言葉に代表させるのはいただけない。

    ICRPについて議論するなら、ICRPの勧告文そのものを取り扱えばいいのではないか? 私の素朴な疑問だ。

まとまりのない議論になってしまった。メディアの「放射線の健康影響」の取り扱い、もう少し考えてみたい。


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