梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んでみて
May 8, 2008 – 5:55 pm我が家の本棚で見つけた梅棹忠夫の「知的生産の技術」に触発されて、『知』の生産、発想について、関連しそうな本を古い順に読みながら、3つのブログ記事を書いてきた。これまでに取り上げた本、いずれも、インターネットが普及する前に出版されたものだ。計算機、さらにはインターネットの普及が、『知』の生産とか発想とかにどのような意味を持つのか考えてみようと思ったのだ。インターネットが本格的に普及したあと、どのように、この『知』の生産・発想が議論されているかと思い、図書館で関連する本を探してみた。見つけたのが梅田望夫著「ウェブ進化論」だ。ウェブ時代の「若者?」の主張を知る上で興味深かった。著者の、Web時代の可能性に対する熱い思いが伝わってくる。また、同時に、その危うさも。
梅田望夫著「ウェブ進化論」は、ちくま新書として、2006年2月10日第一刷発行。いまから2年前の出版だ。前回のブログ記事でとりあげた立花隆の「『知』のソフトウェア」が発行されたのが、20年前で、PCが普及し始めた頃だ。「『知』のソフトウェア」からこの「ウェブ進化論」の間に、『知』の生産・発想に関連しそうな本として出版されていたものに、野口悠紀雄の「『超』整理法」(1993年発行)、矢野直明の「情報編集の技術」(2002年発行)がある。この二つの著書、私には、たいしたインパクトはなかった。しかし、この「ウェブ進化論」、Web時代の情報の流れが、以前と、全く異なることを描いてみせ、それが我々の『知』に対する態度を根本から変える可能性を秘めていることが主張されている。時代の変化を知るという意味でも興味深い書だ。
本書における著者の主張は、序章の次の記述につくされるだろう:
本書はネット世界の最先端で何が起きているのかに焦点を当てる。情報技術(IT)ではなく『情報そのものに関する革命的変化』が今起ころうとしているのだということを伝えたい。・・・・「ネットの世界に住む」というほどどっぷりとネットに依存した生活を送る以外、その本質を理解するすべはない。(p.23-24)
「ネット世界の住人」から「リアルな世界の住人」に対し、今、進行しつつあるウェブ時代の革命的な変化を伝えようというわけだ。筆者は、「リアル社会」に住む人々、とりわけ、わが国のビジネス界で活躍する人々が十分にその変化に気がついていない、あるいは理解していないと考えているようだ。筆者の、「リアル社会」へのある種の苛立ちが表明されていると思うのは、私だけの感想だろうか。
「知的生産の技術」: 数日前に、私は「ブログツールは現代の『知的生産の技術』だ」という記事を書いた。書いた時点では、まだ、この本を読んでいなかった。ほぼ同様の主張、私の書きたかったことが、実に、よく整理され、述べられている。このあたりは、私にも、よく理解できる。彼の表現「ブログこそが自分にとっての究極の『知的生産の道具』」(p.165)というのは、実に、その通りだ。
『あちら側』と『こちら側』というあたりが、本書の主張の核心部分だろう。私自身には、彼の主張、今のところ十分には消化しきれていない。特に、手放し(少し言い過ぎ?)のGoogle賛歌ともいえるところは、違和感もある。もっと言えば、ある種の危機感すら持つ。簡単にいうと、情報の一極集中の恐ろしさだ。前回のブログで言及した「情報は権力」なるフレーズをあわせて考えると、そら恐ろしさすら感じる。
検索エンジンは、すべて機械的な処理、人間の恣意的な操作は紛れ込まないということだけで、安心できるとは思えない。昨年の12月に、「厚労省」をGoogle検索すると検索結果のトップに海外の別のサイトが表示されるという事件がおきたのは記憶に新しい。このときは、お役所からの苦情で、Googleが修正を施し「正常」な順位に戻された(関連記事はここ)。
この事件、問題はふたつある。ひとつは、「不適当な」サイトが検索結果として示されたこと、もうひとつは、お役所の申し入れで即座に(1日かかったとはいえ)修正されたというところである。私が注目したいところは、2番目のお役所の申し入れで修正されたというところだ。アルゴリズムは人手で修正可能というところだ。これって、恣意的にアルゴリズムを修正すれば、原理的には「世論操作」だって可能ということなのではないか?(断っておくが、修正しなければ良かったと言っているわけではない。Googleには、修正可能だと言っているのだ)。
このあたりの問題、今後さらに、自分なりに考えてみたいと思う。ともかく、全体を通じて、梅田望夫の熱い思いは、受け入れたいのだが、・・・・。