ブログツールは現代の『知的生産の技術』だ
May 2, 2008 – 2:27 pmブログサイトを開設し、試みに記事を書いていて理解したことのひとつに、ブログツールが情報発信手段という側面だけでなく、自らの考えをまとめるうえで、非常に有効なツールであるということだ。最近、本棚の新書版のなかに、梅棹忠夫著の『知的生産の技術』を見つけた。この本、1969年7月21日、第一刷発行となっている。私の学生時代、ほぼ40年前に、購入したものだ。この本に提案・紹介されている「知的生産」のための方法が、現代、ブログツールとして実現されているのではとの印象を強く持った。
この『知的生産の技術』は初版第一刷の発行が1969年7月21日だ。本棚には、こ『知的生産の技術』が2冊もある。ひとつは私自身が購入したもの(第2刷)、もうひとつは私の妻が購入したもの(第3刷)らしい。第2刷の発行が1969年8月11日、第3刷が同年8月15日となっている。第1刷から一月も経たないうちに第3刷まで発行され、私だけでなく、妻も購入しているところをみると、この本、当時、大変なベストセラーだったようだ。学生時代、この本に触発されて、私も「京大式カード」なるものを購入し、情報の整理をしなくてはと意気込んでトライしたことがある。そのときは三日坊主ですぐに挫折してしまった。
あらためてこの『知的生産の技術』を読んでみることにした。40年前の当時と比べて、計算機技術というか、情報処理技術の進歩は著しいものがある。その時代、『知』の『生産』がどのように議論されていたか、そして計算機さらにはネットワークの進歩のなかで、こうした考えがどのような形に変化したのかを知るというのは興味深いことと考えたからだ。
『知的生産』という言葉について、
知的生産とよんでいるのは、人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいであろう。この場合、情報というのは、なんでもいい。知恵、思想、かんがえ、報道、叙述、そのほか、十分ひろく解釈しておいていい。つまりかんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら――情報――を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ、くらいにかんがえておけばよいだろう。(p.19)
としている。アカデミックな研究活動といったところに限定されることなく、より広義に「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―をひとにわかるかたちで提出する」ことを知的な生産というようだ。インターネットの普及などにより、情報の発信を生業にする人だけでなく、私のような一般の人間にとっても、「なにかあたらしい情報をひとにわかるかたちで提出する」機会が拡大している。こうした行為全体を「知的生産」という言葉で考えてもよさそうである。
「知的生産の技術」出版の時代: この本が発行された40年前が、どのような時代として捉えられていたのか?このことは、大変なベストセラーとしてこの著書が世に受け入れられた時代の雰囲気を知るうえでも興味深い。これについて、本書では、つぎのように述べている;
・・今日は、情報の時代である。社会としても、この情報の洪水にどう対処するかということについて、さまざまな対策がかんがえられつつある。個人としても、どのようなことが必要なのか、時代とともにくりかえし検討してみることが必要であろう。・・情報の検索、処理、生産、展開についての技術が個人の基礎的素養として、たいせつなものになりつつあるのではないか。(p.15)
最近、インターネットの普及のなかで、よく「情報の洪水」ということが言われる。それに対処するため、情報の受け手としてのユーザに対しては、その選別、活用を、より効果的に行うことが求められている。「情報リテラシー」なる言葉もある。まさに、「情報の検索、処理、生産、展開についての技術」の重要性が問題とされてきている。本書が発行された40年前、すでに、「情報の洪水」への対処のしかたを問題とし、議論していたというのには感心する。当時に比べて、情報量は格段の多さだ。今、個人が「基礎的素養」として持つべき広義の情報処理技術はさらに重要になってきている。
さて、情報処理技術を考える場合、今日、コンピューターの役割について論じることは避けて通れない。本書では、どのようにコンピューターの未来を描いていたのだろう。
・・わたしは、たとえばコンピューターのプログラムのかきかたなどが、個人としてのもっとも基礎的な技能となる日が、意外にはやくくるのではないかとかんがえている。すでにアメリカでは、初等教育においてコンピューター用の言語FORTLANをおしえることがはじまったようだ。社会が、いままでのように人間だけでなりたっているものではなくなって、人間と機械とが緊密にむすびあった体系という意味で、いわゆるマン・マシン・システムの展開へすすむことが必至であるとするならば、それも当然であろう。(p.15)
当時、60年代後半のコンピューターの現状はどうであったか?大学とか大手会社のみに、現在のPCからみると格段に性能の劣る汎用計算機が置かれ、多数のユーザが共同で使用しているという状況であった。現在のように、当時の汎用計算機とは比較にならない演算能力を持ったパーソナルコンピュータをひとりで独占して使用できるようになるとは、とても想像されていなかったに違いない。しかし、「個人としてのもっとも基礎的な技能」としてプログラムのかきかたが上げられているところを見ると、日常的な情報の処理をもコンピューターを活用することにより効率的に行うことへの大きな期待があったことが、この記述から伺われる。
知的生産の技術とは? 本書で提案・紹介されている知的生産の『技術』とはいかなるものか?その核は、「京大型カード」とよばれるものだ。得られる情報、あるいは自ら想起したアイディアを、このカードに、逐次、一枚一項目というかたちで記述していく。
この京大型カード、大きさはB6判で、「薄い」罫線が入る程度で、フリーフォーマットでの記録ができるようにしておき、紙質はある程度のあつみと、腰のつよさ、しなやかさがあり、インクをよくすうほうが良いといったものだ。ポイントは、カードに記録した情報を活用できるものにすることということだ。常時携帯可能とし、思い立ったらすぐ記録できるようにすること、のちのち何回にもわたって活用可能なものといったところだろう。
カードへの記録法: カードへの記録は「忘れるために記録する」という。後々、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章で「豆論文」執筆の要領で記述し、この「豆論文」には、「みだし」(内容の一行サマリー)をつけ、一枚一項目とし、日付をつけるという。
カードの活用法: つぎにカードの活用だ。その要点として、「カードを『操作』して知的作業を行う」という。いかにカードを『操作』し活用するのかというところが、カード導入の重要なポイントになる。本書では、カードの活用について、次ぎのように記述している。
操作できるというところが、カードの特徴なのである。蓄積と貯蔵だけなら、ノートで十分だ。・・・カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。・・・くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(p.58)
自らの観察、経験、アイディアをカード化し、複数のカードの「くみかえ」、あるいは「ならびかえ」により新しい発想が生まれてくるというのだ。しかし、こうした複数のカードを「くみかえ」、「ならびかえ」をする場合には、数多くのカード群のなかから(解決しようとする問題との関わりで)適切なカードを選びだすことが必要になるはずだ。やみくもなカードの選別ということではないだろう。「検索」という処理・操作が必要だ。これについては、
・・・カードは適当な分類さえしておけば、何年もまえの知識や着想でも、現在のものとして、いつでもたちどころにとりだせる。カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である。(p.60)
と述べるにとどまる。「適当な分類しておけば」というのだ。おそらく、いちまいいちまいのカードが作成される時点時点で、「適当」に「分類」する手続きを行うことで、無意識に個々のカードがどのように分類されたかを記憶することができるということだろう。自らのアイディアを「忘れるために記録」し、「適当に分類」するという操作で、無意識に記憶しているということになる。
資料・情報の整理: カードとしてまとめられない様々の資料・情報、例えば、新聞の切り抜き、写真、その他の書類については、台紙にはりつけるなどの手続きにより「規格化」し、置き場所を体系化することが勧められる。
この種の情報については、さすがにカードの場合と異なり、「分類」の仕方が問題にされている。
垂直式ファイリング・システムを採用するにあたって、いちばんの問題は、やはり分類項目をどうたてるか、ということであろう。具体的には、フォルダーの耳に、何を記入するか、である。すぐおもいつくのは、事項別分類である。たとえば、「学会関係」とか、「研究会」とか、「調査費」とか、「図書購入」とか、「雑誌論文」とかの項目をたてるのである。ところが、やってみてすぐわかったのは、これでは役にたたないということだ。徹底的に細分化しなければ、じっさい役にたたない。細分化をすすめてゆくと、けっきょくは固有名詞が単位になってしまう。それでいいのである。(p.87)
資料・情報の整理では、「適当な分類」では役にたたない、「徹底的に細分化しなければ、じっさい役にたたない」というのだ。結局、「固有名詞」を単位にすべきというところに落ち着く。現在コンピューター技術の発展のおかげで、膨大な量の文章も、ディジタイズされてさえいれば、個別の単語で瞬時に「検索」することが可能だ。梅棹忠夫が現代版『知的生産の技術』を書くとしたら、どのようなものになるのだろう。興味深い。カード式で困難と思えたものの大部分が難なく解決される筈だ。
『知的生産の技術』で提案・紹介されているカードをベースとする情報整理技術は、今、大部分がブログツールを活用することにより実現される。ブログ記事ひとつひとつが、ひとつのカードに相当する。また、カードへの記録方法の原則として、後々、他人がよんでもわかるように、しっかりと、「完全な文章で「豆論文」執筆の要領で記述せよ」ということがあげられているが、ブログ記事を公開する場合には、文字通り他者が読むことを意識して書くことになる。カード式の弱点だった写真、新聞記事、さらに雑多な資料・情報も、ディジタイズの手続きを経ると、関連するブログ記事に添付する事だって可能だ。「知的生産の技術」出版時には、経験に頼らざるを得なかった「検索」機能も万全だ。まさに、ブログツールは現代版「知的生産の技術」といえるのではないだろうか。
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