「科学文明に未来はあるか」(野坂昭如編著)を読んで

April 6, 2008 – 12:46 pm

今日も本棚を整理していたら、興味深い本を見つけた。野坂昭如編著「科学文明に未来はあるか」(岩波新書:1983年3月 第1刷発行)だ。‘80年代はじめといえば、ほぼ30年前。このごろ、「科学文明」についてどのような議論が行われていたのか、思い起こしながら読み直してみた。


この本、まえがきによれば、『科学』‘82年の一月号から十二月号まで連載された野坂昭如と6人の科学者との対談を一冊の本にまとめたものという。これら対談に加えて、野坂昭如の書き下ろし(「科学文明に未来はあるか」)が加えられている。収録されている話題・テーマは、原子力問題、老人問題、コンピュータ、遺伝子工学などなど多岐にわたっている。とても、本書全体を概括し、感想を述べることはできない。話題が広すぎるし、そんな能力も持ち合わせていない。しかし、野坂昭如はすごいなと感じたところが、いろいろあった。そのなかのひとつ、最近、遺伝子とかDNAを人間の能力とつなぎ合わせて議論するような風潮があるが、それに、多少、関係する話だ。

生物学者の長野敬氏との対談のなかで、遺伝子により人間を差別することの危険性が議論されている部分がある。その議論に以下のようなところがある:

長野: ・・・IQ(知能指数)は遺伝子で決まっているとすれば、頭のいい悪いは遺伝子によって決まっている。だからIQの低い人間は悪い遺伝子をもった人間だ、そんなことをいいだせば差別につながっていきます。
野坂: IQの場合は知能をはかっているのではなく、IQテストで測定できるある数値をはかっているのにすぎないでしょう。僕は1974年に高校を受けたときに初めてIQテストをやらされて、普通の学科試験がでると思ったら、突如として迷路やら積み木。これは何たる問題であろうかとアガってしまってぜんぜんできなかった。ところがその後なんだかんだ八回受けたんですよ。そしたら最後になったら僕はもう超天才・・・。(p.153-154)

この議論のなかで、長野敬自身は、IQが知能を測るものであることを特には否定していない。むしろ、IQで測られた知能を遺伝子と結びつけることで、その人間の「産まれながらにして持つ能力」とし、それにより人間を差別してしまうことの危険性を指摘しているのだろう。しかし、それに対する野坂昭如、さらに一歩踏み込み、IQテストがなんら「知能」をはかっているものではなく、単にIQテストで測定できるある数値を測っているにすぎないと言い放つ。「八回もIQテストを受け(テストのパターンに適応し)たら『超天才』として判定されちゃった。」というところか。

この野坂昭如の議論、かなり重要なことを含んでいると思う。人間の知能、能力を測定することの難しさ。もっと言えば、そのおろかしさを指摘しているのではと思うのだ。

この本全体を通じ、彼は人間の多様さを許す社会の重要性を説いているように感じる。科学文明が、そうした人間の多様さを否定してしまい画一的で効率性に重きを置くような危うさを持つことに警鐘を鳴らしているように思う。この新書が発刊されて30年経った今、この危惧は、より大きなものになったと感じるのは、私だけの感じかただろうか?

それにしても、いつになったら我が本棚の整理は終わるのだろう?


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