斉藤 誠著「原発危機の経済学―社会科学者として考えたこと―」を読んでみた

June 11, 2013 – 5:47 pm

本書の出版は、福島第一事故の発生からおおよそ半年後の2011年10月ということで、あの大事故に触発されて書かれた一連の書籍の一つに分類することができる。数多く出版されている関連本のなかで、本書は、現役の経済学者が正面きって事故の原因、さらには我が国の原子力政策を議論したものとして極めてユニークなものだ。我が国の今後の原子力のありかたを考えるうえで、一読の価値はあると思う。

私自身、7年前まで原子力関連の研究所でお世話になっていた。そういうこともあり、門前の小僧程度には、原子力、そして放射線被曝のイロハを身につけているものと自負している。そうした目から見て、著者は短時間に原子力の基本的な構造・構成について理解を深め、そのうえで今後の原子力事業のとるべき道について深い洞察をしている。

本書で、興味深く感じたところをメモしておいた。

福島第一事故シーケンスについての記述: 福島第一原発事故の原因、すくなくともこの事故の端緒となったのが、津波による全電源喪失ということは異論のないところだ。本書では、もう少し踏み込んだ議論をする。以下、引用:

あまり指摘されていないが、非常に重要な点としては、三基の原子炉とも、この大津波で海水の取水を行うポンプが致命的なダメージを受けた。福島第一原発では、いずれの原子炉でも、海水取得ポンプがそれを守る強固な建屋がないままに、ほぼむき出しの状態にあったからである。
 ・・・
海水取水ポンプが深刻なダメージを受けた三基の原子炉は、原発施設の根幹システムである一次冷却系を失うという事態に陥った。このような状態は、たとえ交流電源が回復したとしても、一次冷却系を容易に回復することとができなかったことを示している。・・・いくつかの、非常用炉心冷却装置は、あくまで一次冷却系が復旧するまでの応急的なシステムであることを考えると、海水取水ポンプが機能しなくなったことは、交流電源の喪失とともに、非常に深刻なことであった。(p.34)

としたうえで、福島第一原発で炉心溶融を避ける方策として次のような手続きを講じる必要があった、とする(以下は、2、3号炉の二つの原子炉について議論されているが、基本的には1号炉についても同様と考えても良いと思う):

(ア)非常用炉心冷却装置に依拠する時間をできるだけ短くする、
(イ)早い段階でベントを行って圧力容器内の気圧を下げる、
(ウ)原子炉外部からの注水をする。

そして、この原子炉外部からの注水については

注水量については、スクラム後の崩壊熱を考えると、一基あたり毎時三〇トン程度の水を確保する必要があった。(これだけの水量を確保するためには:筆者要約)できるだけ早い段階で、原発施設の海側からポンプで水をくみ上げ、原子炉に注入する必要があった。しかし、いったん海水を原子炉内に注入すると、原子炉の配管や炉心が塩分で損傷するので、原子炉の継続使用を断念しなければならない。すなわち、海水注入は、廃炉を前提とする必要があった。(p.42-43)

ここで、本書の著者、斉藤誠は(少なくとも2、3号炉の)炉心溶融回避の可能性があったとしたうえで、「東電経営者は、遅くとも一二日午後のタイミングで、3号炉、や2号炉についても、ベント実施や海水注入について強い意志表明ができたはずである(p.43).」とする。おこなうべき「強い意志表明」を東電経営者が決断しなかった、もしくはできなかったことを重視しているように読める。

上述の原子炉溶融回避のシナリオ、非常に良く考えられている。このシナリオの実現可能性については、詳細な検討をする必要があると思うが、この部分を見ると、著者の原子炉の仕組みに対する理解は実に深い、と感心する。

古い原子炉を使い続けて債務超過! : この原子炉の事故とのかかわりで、原子炉の寿命延長を東電の経営それへの投資といういう観点からどうみるかということについて、なるほど経済学者の説明だ、と思う部分がある。以下、引用:

まるで、キャリー・トレードじゃないか 長く投資に携わってきた人が、「東電が、”古い”原発を使い続けて収益を確保してきたのは、東電の投資家たちがキャリートレードをしていたのと同じではないか」とコメントしていた。その裏側には、「大きなリスクを取って運用したのだから、ロスがでても仕方がないじゃないか」ということが示唆されていた。
キャリートレードとは、通常、通貨のペアーを用いた投資手法を指すことが多い。安い金利の通貨で資金を調達し、高い金利の通貨で運用して、その利鞘を稼ぐ投資手法である。この手法は、一見すると確実に利鞘を確保できるように見えるが、大きなリスクが隠れている。もしも運用期間中に運用していた通貨が暴落すれば、返済負担が増大して金利差からの利鞘は一気に吹き飛んでしまうからである。
たとえば、二〇〇八年九月のリーマンショックまで活発に行われていた円キャリートレードは、金利の低い円通貨で資金を調達し、金利の高いユーロやドルで運用して利鞘を稼いでいた。しかし、リーマンショックでユーロやドルが下落した結果、円キャリートレードを行っていた投資家は、円高で元本の返済負担が激増してしまい大きな損失を被った。
なぜ、”古い”原発の運転で収益を確保してきたことが、キャリートレードにたとえられたのだろうか。ここでは、「低い金利」を「安い運転コスト」、「運用通貨の暴落」を「原発事故の発生」とそれぞれ考えれば、わかりやすいのではないだろうか。すなわち、原発事故が起きないかぎり、安い運転コストが収益源となる。しかし、老朽化して事故リスクが高まっているところに、原発事故が起きて多額の損害が生じれば、運転コストが低かったメリットなど吹っ飛んでしまう。
東電の投資家たちは、高い事故リスクを引き受けながら、高い投資収益(リターン)を享受していたのであるから、原発事故でロスが生じても文句をいえた筋合いではないということになる。そうした事故リスクを前もって引き下げなければ、原発設備更新などの安全のためのコストを支払って、高いリターンをあきらめなければならなかった。
要するに、投資サイドの議論に立てば、高いリターンの背後に高いリスクがあったという当たり前のことが、今般の原発事故でもおきていたにすぎない。

なるほど、とおもわせる。しかし、今般の原発事故では、投資家が被害を受けたのにとどまらず、東日本の大部分の国民が大きな被害を受けてしまった。国民の被害には、環境が放射能まみれになってしまったこと、さらには電力料金の値上げなど、いままで予想もしなかった被害が含まれる。投資家の被害は自業自得といえるかもしれないが、東日本に居住する国民はなんおリターンも受けることなくリスクだけを受けることになってしまったのでは、と思ってしまう。

経済学者の見る核燃サイクルの経済性: 大きな原発事故を経験した我々は今後どのように原子力と向き合ってゆけばよいのか? 

斉藤誠の主張は興味深い。今後、我が国にある原発をどう取り扱ってゆくのか、著者の基本的な考えかたは、本書の冒頭(「はしがき」)を見れば明らかだ:

もし、今、白地(原発がいっさいない状態)から議論を出発できるのであれば、私は原発に強く反対をしたであろう。しかし、五四基もの原子炉がすでに存在し、そのうちの四基の原子炉施設は危機的な状態にある。全国のあちらこちらにある原子炉建屋内のプールには、大量の使用済み核燃料が貯えられている。こうした状態において全原子炉の運転を終了したとしても、原発事業の”終わりの始まりの、さらに始まり”にすぎない。

とし、「周到な準備をした」原発撤退プロジェクトの必要を説く。「戦略的、創造的な撤退プラン」のないままで全原子炉の運転を終了することにすると、「経済社会にとってとてつもない脅威となる」というのだ。すなわち、適正な撤退プランなしで全原子炉の運転を終了し、原発事業全体が収益機会を完全に失うような事態になれば、

運転を終了した原子炉が解体されずに危険な状態のままで見捨てられ、放射性物質を放出し続ける使用済み核燃料がそこらじゅうに放置されることになる。もしかすると、福島第一原発も、現場で職場放棄が相次いで、完全な処理を終えないままに放り投げられてしまうかもしれない。

と危惧する。

そのうえで、原子力事業の今後の展開について検討を加え、次のようにまとめる:

① 軽水炉発電事業は維持する。
② 再処理・高速増殖炉事業からは撤退する。
③ 使用済み核燃料は地上で長期貯蔵する (p.225)

本書を読み進めると、ここで述べられるかたちでの原発事業の展開が現実的なもののように思えてくる。これが、「原発事業からの撤退」のみに限定されるのか、あるいは新規の原子炉建造を否定し、原子力事業をフェードアウトさせる道をとろうとしているかどうかは、私には読み取れない。

私自身は、軽水炉発電事業の継続が可能であると評価し、あわよくば、これを「原子力業界の生き残り」の方策とするようなことがあっては困るがなんて思ってしまう。どうなんだろう。

風評被害: 福島第一事故の発生そしてそれから2年経った今に至るまで放射線被曝の問題について、さまざまな立場からの発言が続いている。汚染食品に関わる「風評被害」は、東日本一帯の農業、漁業に携わる人々にとっては深刻な問題だ。

この風評被害の問題についての著者の見解は興味深い。経済学者というのは、このように考えるのか、なんて思ってしまう。ある意味、リスクコミュニケーションのありかたについて述べている。以下、引用:

そもそも、風評の流布とは、科学者、医者、技術者のいうように、正確な科学的知識を持たない市民の非合理的な行動では決してない。そうではなくて、専門家が発するプロフェッショナルな知見に対して、市民が「どうしたらよいのかわからない」というどうしようもない戸惑い、さらには「専門家を信じることができない」というどうしようもない戸惑い、さらには、「専門家を信じることができない」というどうしようもない不信を感じたたきに、人々が考えられる範囲でもっとも深刻なケースを念頭に意思決定するという、まっとうな合理的行動であった。先述のプロスペクト理論でいう恐怖効果が、専門家たちの言動によって促進されたといえるのかもしれない。
したがって、風評の流布を止めようと思えば、「放射能が人体に影響を及ぼすというのは非科学的な知見である」ということをむやみやたらに繰り返すのではなく、「こうした知恵を絞れば、放射能があなたの活動に及ぼす影響を最小化できます。しかし、それでも、あなたには、これこれのリスクが手元に残ります」と、真摯に、誠実に、丁寧に市民に語りかけることである。

なるほど、と思う。要点は、住民は「専門家」を信頼するに値するものかかどうか推し量っており、信頼に値するものであればそうした風評被害なるものは発生しない、ということか。

まとめ: フクシマ後、我が国が原子力事業とどのように向き合ってゆくか、かなり重い課題である。原発を存続するかあるいは脱原発の道を歩むか、問題を二者択一の選択として見るのは簡単であるが、それで今我々が抱えている課題に答えることにはならない。本書で示されている道筋は、ひとつの現実的な解といえるのかもしれない。


Post a Comment