東日本大地震・個人的体験(地震直後)

April 2, 2011 – 3:37 pm

3月11日に発生した東日本大地震から3週間たった。今回の地震被害、特に津波による被害は、私の想像をはるかに超えるものだった。私の住む茨城県でも、未だに強い余震が続いている。
東北地方沿岸部の被害に比べるととるに足らないものであるが、我が家でも、壁に多少の亀裂が生じるとか、引き戸の窓がはずれるなど、それなりの被害を受けた。
この震災以来、ブログを書くことを休止していた。ブログを書く精神的余裕がなかった、ということでもある。
地震発生から3週間経った今、この地震についての個人的な体験、地震直後から考えたことを、忘れないうちに記録しておくことにした。
後々、多少の役にたつことがあるかもしれない。以下、地震直後の話だ。

地震発生時: 地震が発生したのは、午後2時46分だったようだ。私が、もっとも強い揺れを感じたのは、その2分程度後だと思う。揺れが2分程度続き、ドカンと凄い揺れに見舞われた。

地震が発生したとき、近所の公営のスイミングプール(笠松運動公園)のなかにいた。ちょうど休憩時間の直前であったため、プールのなかにいたのは私ひとりだった。地震の強い揺れがはじまると、プールサイドにいた人たち(確か5,6人のひとがいたと思う)は、かどに身を伏せていた。

このスイミングプール、水深を変えることのできる可動式の床を備えたプールだったこともあり、地震発生時は、床が縦に横に強く揺れた。ただ、プールの水なかにいる私にとっては、そんなに大きな揺れとは感じられなかった。ただ、天井から吊り下げられている大きなライトが強くゆれ、今にも頭上から落ちるのではないかと感じられた。

これまで、大きな地震(震度5程度)が起きるたびに体育館の天井が崩落するニュースを見たことがあった。天井、そしてライトが崩落することを警戒して、揺れのなか、それを注意しながら見ていた。私が予測していたとおり、天井全面が崩落し、頭上におちてきた。即座に、水のなかに潜って、これを避けた。

水のなかから上を見ると、プールを蓋するように大きな天井が落ち、水中の私の頭上は、「全面」、崩落した天井板で覆われてしまっていた。天井板を上部に押し上げようとしたがびくともしない。一瞬、このままでは溺れてしまう、と思った。あてはなかったが、天井板のないところを求めて、水中を必死に泳いだ。幸いにも天井板のないところにでることができた。

プールからあがって周囲をみると、プールサイドには年配の女性ふたりが倒れていた。「大丈夫ですか」と尋ねると、「胸が苦しい」という。プール監視員(ライフセーバー)の若者たちに大声でタンカを持ってくるように叫び、女性をタンカに乗せてホールまで運ぶのを手伝った。どうやら、ふたりのうちのひとりは足を骨折していたようだ。

たまたま、プールにいたひとが少なかったことから大きな惨事にはならず済んだ。いつも行われている水泳教室などのさなかだったら、こんなことではすまなかったのではないか、と思う。

しばらくすると、火災報知機がなりだし、自動音声で「火事です、非難してください」とアナウンスされている。地震の揺れでほこりが立ちこめ、これを煙と検知したようだ。

強い余震を警戒して、ロッカールームに置いていた洋服を持って裸のまま外に非難した。

プールの建物の外にでると、携帯電話を持った若者たちが、「茨城全県が震度6強、震源地は宮城県沖」だと教えてくれた。ここで、広範囲に大きな地震が発生していることを始めて知った。

我が家に帰ってみると: プール建物の外で洋服を着て、とにかく我が家に帰らねば、と自動車で2キロ(くらい)の道を走った。途中、数回、余震で地面が揺れた。実際のところはどうかは分からないが、道路が波打っているように感じた。このような経験は初めてだ。冷静になって考えると、強い余震のなか、車を走らせるというのは危険なことだったかもしれない。

自宅周辺に近づくと、家屋の倒壊はないものの、塀という塀が倒れている。我が家は、なんとか大きな被害を免れているように感じる。自宅にいた家族が近所の駐車場に避難しているのを見つけホッとした。その間も強い余震が、かなりの頻度で、地面を揺らし続けていた。余震が落ち着くまで、駐車場にとどまった。

頃合を見計らって、自宅に入ってみると、引き戸という引き戸が倒れている。本箱から本が飛び出し、床一面に広がっており、文字通り、足のふみ場もない状態になっている。一応、我が家、耐震性能を考えた家作りになっていたことから、家屋の損傷事態はそんなに大きくないのだが、壁のクロスがいたるところヒビが入っている。食器棚にあった陶器などが、かなりの数、壊れている。我が家の被害といえば、幸い、その程度で収まっていた。

被災最初の夜: 電気、水道は地震直後から止まっていた。周りが暗くなってきたが、電気、水道が復旧する気配はなかった。その間も強い余震が続いていた。近所の人は、自宅にとどまらないで、車のなかにいる。

我が家は、家族全員(偶然、娘の友達もいた)、家のなかに、そのままとどまることにした。地震発生直後から数時間は、携帯が通じており、娘の友達には、ご家族に連絡して、一夜を我が家族と過ごしてもらうことにした。

ラジオは聞くことができた。次々報じられるラジオのニュースでは、地震そしてその後の津波の発生を報じていた。通常聞く「津波警報」ではなく「大津波警報」だという。そのうち、三陸地方の数々の町が壊滅状態にあり、百人単位の遺体が見られるという。この地震、ただごとではなさそうだと感じる。

そのうち、午後6時過ぎのニュースで、「福島原子力発電所では、外部電源がなく、ディーゼル発電機、非常用の電源が確保できない」と報じられているのを知った。これは大変なことになった、と思った。電源を欠いた原子炉では、安全系のシステムは動作しない。耳を疑った。

電気がとまっていたため、石油ストーブも含めて暖房器具は使えない状態になっていた。水道がとまっているため、トイレも水がながせない。ベッドの周辺は、引き戸、たんすが倒れていて、暗いなかでは歩き回るのも危険が付きまとう。寒いなか、洋服をきたまま、ありったけの布団にくるまれて暖をとる。とにかくジッとしているしかない。その間も、余震が頻繁に続く。

単一電池4個を入れる懐中電灯が使えた。懐中電灯で天井を照らすと、不十分ながら、部屋のなか全体が明るくなった。不謹慎な話であるが、山中にキャンプにでもでかけているような気分になった。大変な状態になっているのは分かるが、こうなったら、できるだけ楽しく過ごさねば、と思ったりもした。

幸い、ガスはLPガスで使うことができた。たまたま地震発生前に米をといでおいていたので、ご飯も普通の鍋で炊くことができた。さらに、地震発生時に、妻がスーパーで買い物を済ませたところだったので、数日間の食料も足り、なんら不便を感じることはなかった。

ただ、困ったのは水道が止まっていたことだ。まず、飲料水がない。そして、上にも書いたように、トレイを流す水がなかったことには困った。飲料水については、ヤカンのなかとか、ポットのなかにあった水を使うことで凌ぐことができた。

なんとか、地震後の最初の夜は、やり過ごすことができた。1~2日で、電気、水道も復旧するに違いないと、かなり楽観していた。この時点では、テレビもパソコンも機能しなかったことから、地震の影響の大きさを十分に理解していなかったともいえる。

こうして地震発生の1日が過ぎた。


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