池内 了著「擬似科学入門」を読んでみた

August 21, 2010 – 5:18 pm

 娘が高校から持ち帰った推薦図書リストのなかに池内了著「擬似科学入門」というのがあった。近所の公立図書館でこの本を見つけた。理由はさだかでないが、この図書館には、池内了さんの著書が何冊も収められている。私も、4,5冊読んだ記憶がある。科学の啓蒙ということについて、影響力の大きい科学者のようだ。擬似科学ということで、どんな議論がされているのか興味をもって読んで見た。

本書を通じて、疑似科学を野放しにしておくと大変という著者のメッセージ、数々の事例を知ることができた。しかし、同時に、疑似科学退治の著者の主張に若干の疑問も・・・

著者「池内了」氏について、本書では、以下のように紹介されている:

総合研究大学大学院教授。
1944年兵庫県に生まれる。1972年京都大学理学部を皮切りに、北海道大学、東京大学、国立天文台、大阪大学、名古屋大学、早稲田大学と移動し、2006年より現職。
専門は、宇宙物理学、科学・技術・社会論
著書-『科学者心得帳』『転回期の科学を読む辞典』『寺田寅彦と現代』『禁断の科学』『考えてみれば不思議なこと』『ヤバンな科学』『科学は今どうなっているの?』『科学の考え方・学び方』
『お父さんが話してくれた宇宙の歴史1-4』『物理学と神』

ここで紹介されている著書の何冊かは読んだ記憶がある。主要紙の書評欄を担当されているという記憶もある。宇宙物理を専門とし、幅広く種々の評論活動を行っているかたのようだ。現職の総合研究大学大学院では、理事(経営・運用)も勤められている。

著者が「擬似科学」について議論する動機について、「はじめに」という部分に次のようにかかれている。以下、引用:

・・科学を仕事とする人間として、科学を装った非合理に対して黙って見て折られない場面もある。・・疑似科学のカラクリを少しは見抜ける科学者として、世の中に警告を発する役割もあろうかと思う。税金でご飯が食べられ、好きな天文学の研究をやってこられたのだから、少しは世間に恩返しをしたい・・。
(非合理を安易に許容する傾向、情報化時代になって「劇場化」と「観客民主主義」が両輪となって均質社会が生み出されるという傾向が危惧される状況にある:この部分、乱暴に私が要約)・・
こういった時代状況にあれば、いっそう信じることではなく考えることの大事さを強調したい。その手がかりとして、本書で擬似科学にまつわる非合理を考えてみようというわけだ。(はじめにii-iii)

科学者として、今、擬似科学が蔓延し、それをみぬけるだけの合理的な思考が阻害されてしまうよう時代状況にある、と考えられ、なんとか、これを是正しなくてはならない。と考えられたようだ。

疑似科学が世の中に蔓延しているようだ: 確かに、本書を通じて、科学の装いをした疑似科学がさまざまなかたちで、数多く、世の中に蔓延していることを知ることができた。

驚くような話が書かれている。例えば:

今、心の教育と称して採用されている「水からの伝言」もその一種である。「ありがとう」と感謝の気持で水を冷蔵庫に入れると美しい形の結晶となり、「バカやろう」とか「死ね」というような相手を罵倒する気持ちで水の結晶を作ると不揃いのものしかできない、というのだ。「水はなんでも知っている」かのごとく、人の心まで映し出すと、学校ではまことしやかに教えられているらしい。・・
(p.51)

とんでもない教育が学校という場で進行しているのをはじめて知った。大変なことだ。本書では、この種の話が数多く紹介されている。科学者としての著者の憤りは十分に理解できる。疑似科学に対する批判、本書を通じて十分に伝わって欲しいと願うばかりだ。非常に、難しい課題だ。

疑似科学に対する対処法: 本書の終章に「疑似科学に対する処方箋」が書かれている。この処方箋のひとつとして「科学者の見分け方」というところがでてくる。ここに、地球温暖化問題でおなじみのアル・ゴアの話がでてくる。以下のようなものだ:

 ・・・科学者ではないが、アメリカの副大統領であったアル・ゴアは「不都合な真実」という映画と本で環境問題が切迫していることを訴えておおきな共感を得、ノーベル賞まで授与された。ところが、ゴア自身は大邸宅に住んでいて、およそ環境に優しい生き方とは思えない暮らしぶりである。それでは口先の批判であって生活に根付いていないから、素直に彼の言うことが信じられなくなる。とはいえ、環境問題に関するゴアの情報収集能力は素晴らしいから、その部分は受け入れねばならない。言っていることとしていることが食い違っていることは往々にあることで、買うべきところは買うが、全面的に使用すべきでないということだろう。環境問題に常々警告を発しながら、自分は何もしていない科学者も同類である。環境派を標榜する科学者であれば、自分の生き様を手本にできるくらい実践していなければならない。私たちも、表向きの姿だけでなく、その実像をみるのが大事なのだ。(p.192)

この部分、著者の主張が良くわからない。「アル・ゴアの暮らしぶりは環境問題を論じるにしては環境に優しくない」ので信用すべきではない、ということが主張されているのか。それとも「彼の情報収集力は素晴らしい」からそういうものと切り離してみるべきというところに重点があるのか。私には良く分からない。

何度も読み返してみると、どうやら、著者は、科学者の主張を吟味する際には、議論の中身は別にして、科学者の生き様・「実像」を見ることが重要と主張しているようだ。アル・ゴアは、情報収集力があり、ノーベル賞も授与されたのであるが、その生き様・「実像」をみると信用できない、ということのようだ(持って回った議論であるが、そう読んでいいようだ)。

著者・池内先生自身は、「疑似科学退治の手伝いをし、環境共生型の家を新築し、科学を伝える役割を果たして」おり、生き様・「実像」からみて、信頼される科学者になるよう努力してる、という。著者の生き様・「実像」は、それはそれで、尊敬すべきものだろう。私自身、環境共生型の家の新築について書かれた著作を興味深く読ませていただいたこともある。

しかし、この著者の論法、果たして、「科学的」といえるものだろうか?

以前、このブログ上で、アル・ゴアの「不都合な真実」について書いたことがある(ここ)。私の結論は、アル・ゴアの議論は、多分に「政治的プロパガンダ」といったもので、同時にノーベル賞を受賞したIPCCの主張とは区別すべきものである、といったものだ。

アル・ゴアの主張・議論を吟味するうえで重要なことは、「不都合な真実」に示された数多くの異常気象現象が、グリーンハウス効果による地球温暖化の兆候として、どのように論証されているかを見極める、ということにつきる。彼の議論を、まさに、「科学的」な目で吟味・検討しなければならない、と思うのだ。アル・ゴアが大邸宅に住んでいようと、住んでいまいと、直接には関係ない。

失礼ながら、本書、「科学」を旗印にしながら、どうも「科学的」とはいえないような議論が散見される。私ひとりが感じることなのかもしれないが・・・。

著書のなかに主張されているよう、疑似科学を退治するには、自分の頭で合理的に考え、正しく疑う力を養うことこそが重要だ。そのためにも、科学を装う個々の議論にたいし、「科学的」な態度で、緻密に、予断なく対処して行かねばならない、と思う次第だ。


  1. 2 Responses to “池内 了著「擬似科学入門」を読んでみた”

  2. 中学1年女子です。私も読ませて頂きました。
    筆者が類似科学という言葉を何度も用いるのは、科学はこうでは無い、という部分を逆説的に捉えると「現代の科学は間違っている」と伝えたいのでは無いかと思うのですが、そのところどうお考えになりますか。
    文がわかりずらくなりすみませんが、ご意見が聞きたいです。

    By Takahashi on Jan 14, 2016

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  2. Aug 28, 2010: 日本学術会議の「『ホメオパシー』についての会長談話」を読んでみて | Yama's Memorandum

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