秋元健治著「原子力推進の現代史」を読んでみた
August 12, 2015 – 11:53 am今日(8月12日)、鹿児島県川内原発が再稼働された。福島原発事故から4年半が経過した今、あの大事故を経験した我々は、我が国の原子力分野における歴史を再検証し、原発再稼働の是非を含めて、原子力の将来について吟味することが必要と考える。
近所の公立図書館で、本書「原子力推進の現代史」をみつけた。副題は「原子力黎明期から福島原発事故まで」となっている。福島事故に至る原子力を取り巻く歴史を知るうえでひとつの参考になるのではとの思いで本書を読んでみた。
読後感を一言で述べるなら、なんとも不思議な「歴史書」を読んだというところだろう。表現は悪いが、原子力の歴史というより原発スキャンダルの単なる羅列というような印象を受けてしまった。
本書を読んだという記録を残すという意味でメモしておいた。
著者と本書の立ち位置: 本書の巻末にある著者紹介によると、本書の著者、秋元健治は現職を日本女子大学家政学部家政経済学科教授とするかただという。その経歴・著書リストを眺めると、原子力分野の専門家ではなく、これまでジャーナリスティックな視点で原子力にかぎらずさまざまな分野で発言をしている書き手といった印象を受ける。
本書の議論の進めかたは、原子力推進の是非を、技術的に、社会科学的に、そしてエネルギー戦略的に吟味していくというより、むしろアプリオリに原子力を危険で不合理なものと断罪し、それに適合するエピソードを著新聞記事などから拾い、紹介している、といったもののような印象をうける。
原子力を推進することに反対の立場をとる人々が本書を読み進めるなら、「やはりそうなのか『原子力ムラ』の罪をあらためて確認した」ということになるだろう。私にとっては、反原子力キャンペーンを進めるために書き連ねられる週刊誌のスキャンダル記事の羅列のような印象すら受ける。
残念ながら、本書に断罪される原子力の抱えるさまざまな不条理を、将来にわたって、いかに解決するかについては、なんのヒントも与えていない。
本書は、実に300ページを超える分厚い本だ。そこで、繰り返し主張されることは、「金まみれの原子力産業に群がる利権集団」の存在だ。本書では、その利権集団を「原子力推進複合体」と呼ぶ。原子力問題の大部分はこの原子力にまつわる利権のなかで議論される、と考えるようだ。
本書の主張がまとめられていると思う部分を以下引用:
日本の原子力政策は、「核の平和利用」に多くの人々が期待と幻想をいだいた初期を除けば、経済性や安全性の視点からの本来的なエネルギー政策ではなく、官民共同の利潤獲得・分配政策だった。また原子力が本質的にもつ危険性こそが、安全性確保の根拠から公的資金を投じた各種原子力開発プロジェクトの推進、過剰なまでの原発は安全だという広報活動、さらに原子力事故を危惧する立地自治体への交付金をうみだした。それらは産業界や地域社会に利潤獲得の機会を提供し、これが既得権になり原子力政策の柔軟性を失わせた。
・・・
日本の原子力推進の形態とは、「原子力推進複合体」(Nuclear Propulsive Complex)と呼ばれるべきものだ。・・・ もしエネルギー政策の目的が正しく理解されるなら、原発も大きな要因となっている世界最高水準の電気料金、数万年後まで残る放射性廃棄物を出し続ける原発による発電を望む市民はいないだろう。じつは原子力が推進されてきたのは、エネルギー問題ではなく経済と利権問題からなのだ。
「原子力推進複合体」を構成するのは、政権与党、各省庁、国の原子力研究開発機関、原子力に関係する公益法人、原子力産業界、電力業界、そして原子力施設の立地する地元自治体と経済界、これらにマスメディアと一部の科学者、知識人たち、文化人たちをくわえてもいいだろう。・・・ (pp.248-249)
原子力の問題を、原子力にまつわる利権ぬきには語れないとは思う。それ自体には異論はない。
しかし、筆者のいうように「原子力が推進されてきたのは、エネルギー問題ではなく経済と利権問題からなのだ」と問題を単純化してしまうのには、違和感を感じてしまう。
読み終えて、疲労感だけが残った。正直な感想だ。