武田徹著「原発報道とメディア」を読んでみた

October 10, 2011 – 3:04 pm

近所の公営図書館で「大震災と福島第一原発事故」関連図書のコーナーで見つけたのが本書、「原発報道とメディア」だ。ひととおり読んでみた。表題から期待したのは、今回の原発事故に対するメディアの対応について、さまざまな事例を紹介するとともに、その問題点を指摘しているのかもしれない、といったものであった。実際には、むしろ、著者のジャーナリズム観、ありかたを議論したものになっている。

 読後感をひとことでまとめると、3月11日を経験し、「事実」を「報道」するジャーナリストとしての立ち位置をどこに求めるのかを率直に模索する姿を、著者の議論のなかに見たように感じた、といったところだろう。


武田徹とは誰?: 著者、武田徹氏について本書では、次のように紹介されている。

1958年生まれ。ジャーナリスト、評論家。恵泉女学園大学人文学部教授。メディアと社会の相関領域をおもな執筆対象とするとともに、メディア、ジャーナリズム教育に携わってきた。
「私たちは「こうして『原発大国』を選んだ―増補版『核』論」(中公新書ラクレ)など多数。

となっている。

「安全と安心」の議論: 2000年初めころから「安全、安心」な社会の構築ということで盛んに科学技術と社会のかかわりについて議論されたたことがある。私も、文部科学省が主導した関連プロジェクトのひとつに少しだけ関わったことがある。それもあり、多少ではあるが、その動きのその後に興味があった。

本書の著者、武田徹氏も「安全安心な社会を実現する科学技術人材育成」プロジェクトの枠組みのなかで実施された科学技術ジャーナリスト育成プログラムに、ジャーナリスト教育活動に参加した経験を持つという。

ここで著者が担当したジャーナリスト養成コースでは、現役ジャーナリスト向けの講義中心のコースは、「科学技術系専門記者に専門地域を与えるという名目でプロジェクトのスポンサーだった文部科学省から強く設置が求められ・・、科学者と近い立場にいる科学技術振興機構(JST)の職員は、日本では科学ジャーナリズムが未成熟であるために、日本の優れた科学技術に大衆的支持が集まらない」との認識のもとに計画されたもののようである。

そして、そうした傾向は、「原発に関する報道に顕著で、過剰にその危険性ばかりがそこでは強調されており、そのために国民がいたずらに不安感を抱くので、科学技術政策がスムーズに進行しない」と行政が考えていた。

武田徹氏に対する行政の期待は「科学技術政策のスムーズな振興」を行うために現役ジャーナリストの「教育」であったといえる。また、このプロジェクトに武田氏の参加が求められたのは、彼の著作「私たちはこうして『原発大国』を選んだ―増補版「核」論」(中公新書ラクレ)における原発問題へのアプローチが注目されたということのようだ。

科学技術と社会を論じる場にいつも顔をだす原子力問題。やはり、この「安全・安心」議論でも中心的な問題であった。

しかし、そこで強調されていた「安全・安心」なるフレーズに対し、彼、武田徹氏は、かなり批判的であった、ようだ。私も「安全」と「安心」を並列した議論には抵抗を感じた覚えがある。

大震災そして原発事故発生後の著者のジャーナリズムへの思い:  批判的にしか見ることがなかった「安全・安心」に対し、震災・福島第一事故を経験したのち、官制プロジェクトの推し進めた「安全・安心」とは異なるかたちの「安全・安心」の重要性を見出す。また、そこにジャーナリズムのあるべき姿を見いだしたようだ。以下、引用:

だが、震災を経験して心境の変化が起きた。・・・水素爆発で2号機の圧力抑制室が破壊されたと知って、放出された放射線量が気になった。茨城県南部や千葉県では線量が特段増えていないことは確認できたが、正直いって気味の悪さ、「不安」は払拭できなかった。

いや、単なる「不安」と少し違う、今まで感じたことのなかった、自分の立つ足下から、周囲の環境のあらゆるものが確かさを失って脆く崩れ落ちそうな感覚――。そして考えた。・・・ 生活する上で手放すことのできない最低限の「安全」や「安心」がある。存在を許される感覚、あるいは存在できることへの希望とでも言おうか。「自分はここにいていい、生きていられる」と思えること、それは誰にも平等に与えられ、人間が人間として生きて行くうえでの基本的な与件として最低限保証されるべき「安全」と「安心」と言えるのではないか。

自分の存在自体をあるがままに肯定するそうした「安全」と「安心」は、政治学者ジョン・ロールズのいう)「基本財(primary goods)」と呼ぶべきものかもしれない。ロールズは権利、自由、(雇用や教育の)機会、収入や富など、どんな生き方をするにしても必ず必要になるものを指して基本財と呼んだ。ここで指摘した基本的な「安全・安心」は、そうした基本財を更に下から支える「基本財中の基本財」と言えるのではないか。

・・・3.11以降のジャーナリズムのあるべき姿を改めて考えなければならないと思った。

もしもジャーナリズムの未来に希望があるのだとしたら、それは「基本財としての安全・安心」の実現に向けて社会を導くことができたときではないか。

なるほど、と思った次第だ。

しかし、私にとってはやっとやっとフォローするだけの難しい議論のように感じた。
若干消化不良のきらいがある。

ともあれ、著者、武田徹氏の思い(と思われるところ)をメモしておいた。


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