福島第一事故と「(原子力の)専門家」(平川克美氏の議論)
August 17, 2011 – 10:57 pm8月16日付け東京新聞(総合版)の文化欄に、平川克美氏による「お金で買った安全神話」なる解説記事がでていた。
この記事において、平川氏は、「本来ステークスホルダー(利害関係者)であってはならない専門家が、(原子力分野においては、)いつの間にかステークホルダーになっている」とし、福島第一事故においてメディアに登場した「専門家の意見が分断されていた理由のひとつがここに起因していた」という議論を展開している。そして、その背景に、安全神話を作るための使われた大量のお金により生じた「利権」がある、という。
この平川氏の議論、かなり乱暴で、一面的ではないかとの印象を持った。多少うがった言い方をすれば、福島第一事故の発生した今、原子炉の安全神話さえ批判しておけば、議論が多少乱暴で、緻密さを欠いていても、すんなり世間に受け入れられる、という印象すら持った。
こうした傾向、福島第一事故後のひとつの世相を反映しているのであろう。その典型として平川氏の議論があるのでは、と考えたのである。メモしておくことにした。
東京新聞上の平川氏の議論を私なりに要約すると以下のようになる:
原発事故以降、多くの専門家がメディアに登場し、次の諸点について見解を述べた。
(1)事故はいつ、どのように収束するのか
(2)原子炉のどこが破損していて、どのような対策が可能なのか
(3)漏れ出している放射能はどの範囲まで届きどのような防衛策があるのか
(4)人間は、何ミリシーベルトの被曝まで受容できるのかしかし、専門家のあいだで、これら諸点について大きく見解が分かれた。
なぜか?
専門家間で見解が分かれる理由は、次のふたつしかない:
理由1.多くの専門家と称する人々にとっても原発や放射能について本当には分かっていない。
あるいは
理由2.多くの専門家が自分の分かっていることよりも優先するものがあるために、嘘をついている。
理由1であるとすると、彼ら専門家は、専門家としてのそれなりの知識は有しているものの、
専門家が自分の分かっていることがどこまで適応可能であり、どこから先は類推でしかないということについて分かっているのかというと、疑わしい。・・・ よく分からないという専門家はいなかった。
理由2、即ち専門家が嘘をついているとすると、
彼ら(専門家)はデマにならない範囲で、自ら言説に手心を加えたり、いくつかある可能性の一つを拡大したり、語るべきことを語らなかったりといったことをした・・。そうしなければならない理由は、彼らが無意識的ではあっても科学的真実に優先させるなにものかに配慮した。
ここで専門家が配慮した「科学的真実に優先させるなにものか」とは、「安全神話をつくるために使われた」大量のお金が「利権」を生み出し、「その保守に加担するステークスホルダー(利害関係者)」を「増殖させる」。そして、
本来ステークスホルダーであってはならない専門家が、いつの間にかステークスホルダーになっている。専門家の意見がかくも分断されているという理由のひとつがここに起因している
以上が平川克美氏の書かれた解説記事の私なりの要約(抜書き)である。
この記事に対する私の印象を少し述べさせてもらおう。この解説記事に従うと、原子力分野の専門家の解説なるものは、「安全神話」、そしてそれを作るのに使われた大量のお金が生み出した「利権」というバイアスがかかったものであり、耳をかすに値しない、ということになってしまう。
はたしてそうであろうか?
そのようなバイアスのかかった議論、解説しかできない専門家が存在することは否定しないまでも、そうしたかたちで議論をすることに何の意味があるのか。疑問を感じる。
私自身、原子力関連の研究所で仕事をしていた経験がある。その立場から言わせてもらうと、専門家間での意見、見解が分かれてしまった背景には、原子炉の状態を解釈するに足る十分な情報が開示されていないということなどもあったのではないか、平川氏の解説記事に書かれたように「専門家」の目が「利権」、「利害」により曇らされていた、と結論づけられるほど単純なものではなかったのではないか、と考えるのである。
むしろ、今、必要なのは、「(原子力の)専門家」が、安全神話をつくるために使われた大量のお金により生じた「利権」に群がるステークスホルダーであると断罪することではなく、その「専門家」が持つ知識、「専門性」を、事故の収束に、そして住民の安全のために生かす方法を真剣に考えるべきではないのか。
いかがだろう。