常石敬一著「クロニカル 日本の原子力時代 1945~2015年」を読んでみた

December 28, 2016 – 11:46 am

近所の公立図書館でこの本を見つけた。

帯には「『原子力安全』の虚構をあぶり出す」となっている。反原子力を主張するものとしては、初版日が2015年7月と比較的新しい。福島第一の事故発生からしばらくは反原発を主張する図書が多数出版された。が、このところずいぶん少なくなったように感じている。読んでみることにした。

読み終えて、なんとも不思議なものを読んだというのが私の印象。読んだという事実だけでも記録しておこうとメモしておいた。

本書の印象を一言
なんとか最後まで読んだ。読了した。

読了というより、正確には、最後まで字面を追った、というところだろう。

原子力分野で仕事をした経験はあるが、内容をフォローるすることすらできなかった。眠気と闘いながら、精一杯の努力で字面を追ったというのが正直なところだ。

何故か?私が「原子力むら」の(もと?)住民で「むら」以外の主張を理解できないことなのかと考えてみたが、そうでもなさそうだ。

失礼ながら、本書は成書としての体裁が整っていないと思うのである。原子力にかかわるメモをクロノロジカルに並べているだけで、著作のために準備した著者の個人的な覚書きをそのまま印刷したに過ぎないように感じる。「岩波」のブランドも落ちたなというのが私の感想だ。

本書を通じて、著者が反原子力の立場にあるらしいというのは十分理解した。それだけだ。

著者、常石敬一とは?
本書では著者の経歴が以下のように紹介されている。

1943年生。1966年東京都立大理学部物理学科卒業、長崎大学教養部講師・助教授・教授を経て、神奈川大学経営学部教授。現在は同大名誉教授、科学史、科学思想、『戦後の疫学』(2005 海鳴社)、『原発とプルトニウム―パンドラの箱を開けてしまった科学者たち』(2010 PHP研究所)、『結核と日本人―医療政策を検証する』(2001 岩波書店)など多数。

科学史、科学思想を専門とするかたのようだ。

著者の原子力に対する立場は?
本書の記述で、著者の立場を代表するところはないかとさがしてみた。

著者の立ち位置は、おそらく、最終章の「終わりに―2015年を脱原発元年とするために」あたりだろうと思った。多少長くなるが、それらしき部分を本書の記述を転載、引用して以下記しておいた。

現在の日本の負の遺産の双璧は、巨額な財政赤字とため込んで行き場のない核のゴミだ。どちらも解決の糸口は見えない。財政赤字が直接人の生命を脅かすことはないが、核のゴミはその存在が人類の生存に脅威となる可能性がある。後者の危険はゴミそのものの放射能であり、加工され取り出される原爆原料のプルトニウムである。核のゴミの現状を悪化させないために必要なことは、原発を止め、これ以上核のゴミを増やさないことだ。
今原発を止めても日本はやっていける。

この記述に続き、原発なしで日本がやっていける理由が述べられている。以下、私なりに編集し転載。

日本経済は「ジリ貧状態」にある。「今後の人口減やGDPの横ばいないしは下降を考えると電力10社の予測は過大だろうし、こうした社会経済・状況の見通しと電力需要予測からすると原発なしで日本の社会経済活動に支障はない。」

「日本はこれまで10年以上(再生可能エネルギー開発の)努力を怠ってきたので、再生可能エネルギー開拓の余地はまだまだ十分ある。日本では今後省エネルギー技術や意識のひろがりがさらに進み、エネルギー需要が飛躍的に伸びることがない。今、脱原発を決断しても、停電に怯える必要はない。・・・今を生きる人の責任として、可能なのだから脱原発を進めるべきだと信じている。」

さらに著者は、経済成長の必要も認めていないようだ。次のような一節がある。

「日本という社会で生活する一人ひとりにとっての暮らしやすさという観点からすると経済成長は必ずしも歓迎されることでもない。就職活動をする学生にとって経済成長は重要だろうが、年金生活者にとってはゼロあるいはマイナス成長であれば物価は安定しており、国の財政状況が健全であれば生活しやすい。・・」

私も年金生活者のひとりではあるが、著者のように経済成長が必要ないと言い切るほどの度胸はない。無責任な話と感じるのは私ひとりか?

この本、本当に読みにくかった
日本の核武装についてもこの最終章ですこしだけ触れられている。以下である。

「・・・1968年で、日本の核武装が非現実的であることをみたが、その理由のひとつは国土の狭さだった。・・・」

というところだ。

本書は、1945年から2015年の一年ずつに2,3ページを割りふりそれぞれの年のトピックを記述している。うえに引用した部分の「1968年」というのは1968年のトピックを書いた「1968年 核時代における新しい大国」を指すものと考えるが、上述したような「国土の狭さが日本の核武装を非現実的なものとした理由」についてはどこにも書かれていない。

あちらに飛んだり、こちらに飛んだり、論点がどこにあるのか掴みにくい本というのが私の読後感。上述した部分は、その典型として示しておいた。

ま、時間をかけて読むだけの本ではなかったのかもしれない。


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