佐高 信著 「原発文化人 50人斬り」を読んでみた

November 24, 2011 – 6:15 pm

原発事故がらみの本をさがしているなかで見かけたのが本書だ。
読後感をひとことでいわせてもらうと、なんとも後味が悪い本であった、といったところだ。
福島第一の事故が発生した今、原子力推進側に立っていたと著者が判定した「文化人」たちを槍玉に挙げ、糾弾している。
こうした糾弾をすることが、フクシマ後にどのように作用するのか、私には定かではない。むしろ、ネガティブな効果しか与えないのでは、と感じてしまった。

著者・佐高信の心情を考えてみると: 佐高信氏、著名な評論家のようだ。私にとっては、テレビの画面で、何度かみかけたことがある程度だ。

それにしても、本書、激しい言葉で、「原発文化人」が告発・非難されている。なぜ、このように激しく糾弾しなければならないのか?本書の「はじめに」の部分に、そのあたりが書かれているように感じた。つぎのような記述がある:

 福島の悲劇は私に戊辰戦争の会津の悲劇を想い起こさせる。会津を含む東北の悲劇と言ってもいい。
 現首相の菅直人は自らを長州人としている。高杉晋作が好きというのも同郷だからという要素が大きい。小泉純一郎は父親が薩摩の出身であり、やはり長州人を自負する安倍晋三を加えれば、薩長がいまだにこの国の政治を動かしているとも言える。
 福島を含む東北は「白河以北一山百文(ひとやまひゃくもん)」として、その政治から切捨てられてきたのである。
・・・・・・
 こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。東北出身の私としては、てめえら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。(pp.11-12)

なるほど、と思った。

本書を東北出身者としての告発の書として読めば、佐高信の怒りが理解できるのかもしれない。それにしても、薩長まで遡る怒りには驚きすらあった。

高木仁三郎についての記述: 本書、単に「原発文化人」を告発するだけの本ではない。原発の危険性について発言してきた文化人についても言及している。もちろん、こうした「反原発・脱原発」の科学者に対しては、敬意が払われている。

そうした「反原発・脱原発」の科学者のひとりとして高木仁三郎があげられている。佐高信は、高木仁三郎著作集の編集者のひとりであったという。著作集の刊行記念講演会でつぎのように述べたことが紹介されている: 

 高木さんがガンを宣告されてから、私は高木学校で一度話したことがありますが、その時に、日本の官僚のいい加減さについていろいろしゃべったわけです。もちろん高木さんからは「ありがとうございました」とは言われました。でも私の印象としては、少したしなめられたような気がしたんですね。どういうふうにかと言いますと、こちらは官僚の悪を生々しく並べ立てて、アジるというか、煽動するところがあったと思うんですが、高木さんはそういう方法をあまり好まなかった。悪辣極まりない官僚の胸にも届く言葉を探していたんだと思うんです。それはかなり難しい話です。人間の言葉が話せない、聞けないのが官僚だというのが私の持論ですが、高木さんはそこは非常に不満なんですね。だから、煽りが露骨になると顔をしかめる。(p.112)
(2004年6月12日、「高木仁三郎著作集」<七つ森書館>刊行記念講演会にて)

 このあたり、高木仁三郎の「市民科学者」としての節度ある態度が紹介されている。

 この部分を読むと、私のように原子力業界で長年お世話になったものにとっても、高木仁三郎という科学者のひととなりが理解され、脱原発の運動の必要を感じさせるように感じる。

私が、本書を読んで、なんとも後味の悪い読後感を持ったのは、まさに高木仁三郎が「顔をしかめ」のと同じ感覚であったのでは、と思った次第だ。

「フクシマ後」の今、何が必要なのか?といえば、おそらく、「原発文化人」を槍玉にあげて告発することではなく、そうした原発文化人の「胸にも届く言葉」でフクシマ後の未来を切り開かせることこそ必要なのではないか、と思う。

 本書、「原発文化人 50人斬り」は、まさに高木仁三郎の行ってきた運動の必要をわたしに感じさせてくれたと言う点で、意味ある書であった。


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