吉本隆明著「『反核』異論」を読んでみた

January 31, 2009 – 1:17 pm

NHK教育の吉本隆明の講演を見て(NHK教育TV「吉本隆明が語る 沈黙から芸術まで」を見た)、この人の著作に興味を持った。近所の図書館にでかけて、その主著「共同幻想論」を読もうと探してみたが、一般の書架になかった(閲覧数が少なく倉庫に保管されていた)。とにかく吉本隆明の著作だったら何でも読んでみるか、ということで、目に付いた「『反核』異論」と「戦争と平和」の2冊を借りて読んでみた。「『反核』異論」のなかで主張されていること、特に「科学の本質」とはなにかを議論した部分は非常に重要であると考えた。現在の反科学的な風潮に対する鋭い批判になっている。

本書「『反核』異論」は、深夜叢書社から1982年に発行され、同年一月に発表された「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に対する吉本隆明による一連の批判を中心にまとめたものだ。この「文学者の声明」は、西ドイツへのレーガン政権の核配備に反対した全国的な「反核」運動の一部をなすものであった。「反核」運動は全体としては二千万人もの反核書名を国連に提出するなど、国民的な運動として展開したものだ。私自身、反核署名に応じた、というよりむしろ署名活動に協力した記憶がある。

何故、吉本は『反核』運動を批判したのか?: 吉本隆明は、何故、この国民的ともいえるスケールで展開された「反核」運動を、「文学者の声明」を主に対象としていたとはいえ、批判の対象としたのか?そのあたりについて、私の理解では、以下の部分で代表されると思う。以下、引用;

・・・・反核運動は、ポーランドの労働者、市民の運動をぶったたくための隠れみのだと思っている。だから情勢判断がまるで違うわけで、それが賛成できない理由です。文学者反核声明は、ソ連は社会主義で平和勢力であり、アメリカは帝国主義で戦争狂奔勢力であるという半世紀前の固定観念の上にあるわけです。(p.76)
・・・・(文学者反核声明は、)核戦争が一度起こると地球上の全生物を何度でも絶滅できる力を持っているんだとか、それは地球上の全生物を何度でも絶滅できる力を持っている。だから反対するんだと、そう言っている。 ・・・・ どうしてそういう言い方をするかというと、だれからも非難されないような、全き正義の言葉みたいなものを所有したいからなのです。だけど、それこそが非難の余地がある問題なんですね。
・・・・核戦争反対の声明を出し得るとすればひとつの立場しかないと思います。それはアメリカとソ連を明瞭に名指しで批判することですね。だれからも非難されない正義の場所ではなくて、だれからも非難される、つまり、アメリカからも非難される、ソ連からも、もちろん日本の政府からも非難される、そういう場所からしか批判してはならないのです。だれでも表面上は反対するいわれはないというようなことを寄り集まってしようというなら、だれからも非難される場でしなければ意味がないんですし、それ以外のやり方をしたら退廃なんですよね。・・・・(p.76-78)

なるほどと思う。少し、ピントはずれになるのかもしれないけど、当時はやった言葉でいうなら、ラディカルに、自ら、考えなければならないといっているのだ。大衆運動というものの難しさを感じる。下手したら、体制翼賛会になってしまう。

「反原発」の主張と「科学」の本質: 当時の「反核」運動のなかに、「反核は、『反原発・反安保(反米)』とこみでなくていけない」との主張があった。吉本は、こうした主張を激しく批判した。この批判、「科学」をどうみるかという点で非常に重要なことを含んでいると思う。これが書かれた当時から30年以上経った今日からみても、「科学」というものに対するみかたを考えるうえで重要なことが述べられている。本書に書かれている吉本による批判を正しく要約するほど私は十分な能力は持ち合わせていない。ということで、かなり長くなるが、以下、重要と思う部分を引用:

 「反核」と「反原発」を結びつける理念も錯誤である。「反核」というときの「核」は核兵器あるいは核戦争を意味する。核兵器または核戦争としての「核」は、クラウゼヴィッツの古典的な『戦争論』によってさえ、べつの手段による「政治」の問題にほかならないのだ。ところで「反原発」という場合の「核」は核エネルギイの利用開発の問題を本質とする。かりに「政治」がからんでくる場合でも、あくまで取り扱い手段をめぐる政治的な闘争で、核エネルギイそのものに対する闘争ではない。核エネルギイの問題は、石油、石炭からは次元のすすんで物質エネルギーを、科学が解放したことを問題の本質とする。政治闘争はこの科学の物質解放の意味を包括することはできない。既成左翼が「反原発」というときほとんどが、科学技術に対する意識しない反動的な倫理を含んでいる。それだけでなく「科学」と「政治」の混同を含んでいる。黒古一夫にいたっては、原子力の研究さえしてはならないとほざいている。こんな中世的な暗黒主義で、反核などとはおこがましいのだ。(p.46)
・・・・
 山本啓の主張のうち唯一の取柄である「反原発」の根拠はこうだ。
 「最近の核の軍事開発が、中性子爆弾や粒子ビーム兵器・レーザー兵器を生み出していることは周知のとおりである。ところで、この核の軍事開発(プルトニウムの生産)にはじまり、核化学技術の開発(廃棄物の再処理技術・プルトニウムの再処理)、そして濃縮技術の開発(ウラン二三五の濃縮)とつながる一連の核エネルギー開発、すなわち核の平和利用だった。核の平和利用をめざす科学技術者の核開発技術、吉本流にいえば科学による物質エネルギーの解放は、そのまま核の軍事利用に応用されたのである。」(千九八二年十月四日「週間読書人」時評)
 「岩波」式パンフレットをひき写したど阿呆の言い草にすぎぬ。この言い草を延長してみればそのど阿呆ぶりは、すぐわかるというものだ。例えば一本のネジ釘、ボルト、ナット、テレビや電子時計の材料部品や半導体素子は、すべてそのまま核兵器その他の軍事兵器の生産にすぐ利用できる軍事物資だ。だからこれらの生産や工作研究は、いっさいやめるべきだといったら、どんな人間でも失笑するだろう。「核」エネルギイの「本質」を欠いた、こんな洞察では、どこまでいっても「反原発」の根拠へなどゆきつくはずはない。山本啓の言辞に象徴される進歩や左翼を装った反動主義の錯誤は、もっと別の比喩でおき代えることができる。

 マルクスの『資本論』は資本主義経済社会の本質的な解明にあたっている。それは資本主義的商品生産がどこから利潤を生みだすかの基本的な根拠を明らかにしている。もちろん資本家が利用しようとして読めば、どうやったらより高い利潤を生み出すかの方途に利用できるのは当然だ。だからマルクスの『資本論』は敵に利用され、労働者の死を促進する。それを防ぐには資本主義の解明などは一切やめて、マルクスの『資本論』は焚書にすべきだ。(あるいはマルクスは自民党とおなじだ。)こう易しく置き代えたら、どんなど阿呆な山本啓でも、論議の反動性に気づくはずだ。もちろんマルクスが資本制生産の解明が「社会」の「科学」であると信じ、序文で宣明しているのは「科学」が政治や党派にたいしてニュートラルだといいたかったのではない。「科学」が本質的には自然の解明であり「社会」にも自然史の延長として解明して大過ない「本質」的な性格を示す部分があり、その範疇でだけ、「社会」の経済学的分析をじぶんがやっていると信じたのだ。もちろん「核」エネルギイの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。この「本質」を政治や倫理と混同すれば、黒古一夫や山本啓のように暗黒主義や原始主義の陥穽にかかってしまう。山本啓はもともと本質論を欠いた機能主義者だから、わたしの論議を正確に読めない。そればかりか、すぐに政治的応用や政治的統御の問題にすりかえて、典型的に「政治」と「科学」の混同に堕込んでいる。何もちっとも理解できていない。それにもっとひどいのは、専門外のことだと、幼稚な倫理主義者に退化してしまう、つまらぬ啓蒙科学者の言説を鵜呑みにしていることだ。

「放射性物質は、その放射能が半減する半減期が、いちばんみじかいものでセシウム一三七の三〇年、プルトニウム二三九にいたっては、何と半減期が二四三六〇年である。いま日本に蓄積されている放射性物質はドラム缶で五〇〇〇〇本をとうにこえており、この南太平洋への海洋投棄がおおきな政治問題化しているのも、周知のことだろう。核エネルギー開発をこれ以上すすめていくのかどうか、この選択以上に政治的な問題はない。」

 知ったかぶりをして、つまらぬ科学者の口真似をすべきではない。自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即時的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したのと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。これが「核」エネルギイに対する本質的な認識である。すべての「核」エネルギイの政治的・倫理的な課題の基礎にこの認識がなければ、「核」廃棄物汚染の問題をめぐる政治闘争は、倫理的反動(敗北主義)に陥いるほかないのだ。山本啓の言辞に象徴される既成左翼、進歩派の「反原発」闘争が、着実に敗北主義的敗北(勝利可能性への階梯となりえない敗北)に陥っていくのはそのためだ。こんなことは現地地域住民の真の批判に耳を傾ければすぐにわかることだ。半衰期が約二万四千年だから、約五万年も放射能が消えないプルトニウム廃棄物質にまみれて、あたかも糞尿に囲まれて生活するかのような妄想を、大衆に与えるほかに、どんな意味もない。いいかえれば開明によってではなく、迷蒙によって大衆の「反原発」のエネルギイを引き出そうとする闘争に陥るほかないのだ。

・・・・核エネルギイの解放の「本質」が、即時的に宇宙の構造の解明、いいかえれば物質の起源への接近の一歩の前進にあたっているという本質論を欠いているという本質論を欠いている。そのため途方もない「核廃棄物質終末論」の袋小路につんのめっている。あとは躓いて倒れるほか道はない。山本啓に専門的認識を要求してもはじまらないが、現代物理化学のイロハでも知っていれば、「核」廃棄放射能物質が「終末」生成物だなどというたわけ果てた迷蒙が、科学の世界をまかり通れるはずがないのだ。宇宙はあらゆる種類と段階の放射能物質と、物質構成の素粒子である放射線とに充ち満ちている。半衰期がどんな長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ。この基本的な認識は、「核」エネルギイの解放が、物質の起源である宇宙構造の解明の一歩前進と同義をなすものだという本質論なしにはやってこない。山本啓のような機能的政治主義エコロジストに捉えられるはずがない。だから「放射性物質のような非更新性のエネルギーは、それ以上の再処理の仕様がないのだ」という「核廃棄物質終末論」に陥ちこみ、その反動として「のこされた道は、更新性のエネルギーに依存して(つまり石油・石炭・薪・木炭生活ということか?)生態系の物質循環のなかで定常的な生活」を夢見る暗黒主義者、原始主義者に転落してしまうのだ。山本啓がどこまで本気で「反原発」闘争にとりくんでいるのかは知らぬが、この「本質」的な認識を欠いた闘争が、勝利への一里塚としての敗北にもならぬ、ただの敗北主義的敗北に終わることはわかりきっている。山本の云い草をそっくり投げ返せば、それこそが国家権力である自民党政府に反対したつもりで、じつは加担以外の何も意味しない。聴く耳があればわたしの批判をきくがよい。なければじぶんたちだけで転落すればよい。ただ反動的な理念で「反原発」の大衆運動を出鱈目な方向にキョウ動することだけは誰にも許されてはいないのだ。(p.58-62)

吉本隆明がこのような主張をする人であるとは全く思っていなかった。前のブログでも書いたように、これまで吉本隆明の著作というもの、何ひとつ読んだことはなかった。学生時代に吹き荒れた学生運動のカリスマ的存在との「印象」を持っていたにすぎない。迂闊であった。

ここに書かれていること、今日の「反科学」の風潮に対する鋭い批判にもなっている。


  1. One Response to “吉本隆明著「『反核』異論」を読んでみた”

  2. 吉本の過去の全ての書物は死んだ。以下理由。

    ・オウムを肯定した。

    ・反原発と反核の本質を見抜けなかった。

    ・文芸春秋から金をもらった。
    (NHKにまで出演しているとは、恐れ入った。)

    単に「反日共」で飯を食ってきただけ。

    吐き気を催す。

    By 上田一郎 on Jun 14, 2011

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